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娘の医療費でギャンブルした父親と、父の日の話

まぁ、大袈裟な言い回しだけど。


今はもうその病院から診察を拒否されているわけだが、私がまだ町医者に通えていた頃、父も私も同じかかりつけ医にかかっていた。

私はなんかとても変な病気を持っている。
大学病院やその分野では最高峰みたいな病院を転々として、けれど解決ができず、とにかく重症ですねという感じで、何かできることが見つかったら教えますと帰され、そのまま放置されている。

病状が日に日に悪化していく中、月に一度、私は町医者に通っていた。
いつも通りどうせ何の進展もしない診察を受け、「ほぼ気休め」のような薬を出してもらうために。


私が待合室に入ると、コットン製の上質なスーツでも着てコース料理でも食べにいくのか? という感じのイギリスっぽい高級な革靴に、Tシャツに短パンのおっさんがいた。
父親だった。



父親との思い出にはろくなものがない。

幼少期から(今思えば)病気で食事がうまく取れず、症状を親に伝えることができなかったので、どうしてまともに食事ができないんだと結構な頻度で怒鳴られ、殴られていた。

小学生に上がってからは父親は資格を取るために休みの日は一切私と顔を合わせず、勉強に励んでいた。10年やっていたが、結局その資格は取れなかった。

中学生の頃、父親が仕事で鬱になった。私はヤングケアラーになった。
無職の父親の顔色をうかがって、配慮して、ケアで疲れた母の愚痴を聞いて毎日を過ごしていた。

私はそこそこいい大学に進学したが、病気が悪化して退学した。
退学する時に、ちょうど鬱の回復期で万能感に包まれていた父親と揉めた。

父親はやる気があったら鬱病が治ったので、やる気があったら私の持病も治ると言った。私が病気なのはやる気がないからだと私を叱った。
お前理系の恥晒しやめろよ根拠出せよと言ったら洗濯物を投げつけられた。大喧嘩した。喧嘩というにはあまりに幼稚なヒステリーだったと思う。
あまりのことにきょうだいが母親に連絡し、仕事中だった母親を早退させて母親が仲裁をしていた。母親は呆れた顔をしていた。


その結果、私は家から出て、一人暮らしをすることになった。

理由は、「父親と私を同じ家に住まわせられないから」だ。


それから私は持病でろくに働くこともできず、ギリギリの体でなんとか開業届を出して、働ける日にちょっとした趣味の延長程度の依頼を受けたりして、それでなんとか毎日を生きていた。
赤字だった。学生の頃貯めていた貯金がどんどん減っていった。

金銭面でも体調面でも、親に迷惑をかけるわけにいかないと思っていた。追い出された身だから。私がいるとただでさえ家庭に精神的な負担がかかるから。
でも病状はちっとも良くならないし、治療法はない。
日に何度も倒れながらかろうじて生きる。
ベッドにも行けず脱衣所や廊下の床で倒れている間に、漠然と将来の不安のことを考える。
そういう毎日だった。



待合室で、変に高い、高低差が激しくイントネーションが妙な、要するに喋り慣れてない声で私に明るく話しかけてくる父親を見て、看護師が「仲が良いんですね」と言った。
そして、「お父さん娘さんの診察代出してあげないんですか?」とも。

それに対して、父親は、「やなこった」と言った。

「僕は娘のことは自分でやらせるので、払うわけないじゃないですか」と得意げに言い、「この後用事があるので帰ります」と言って私の診察を待たずに病院から出て行った。


私はその場にぽつんと取り残されたようだった。
看護師達が気まずい顔をして黙り、互いの顔を見合わせて、それから私の顔色をおそるおそる見た。


看護師から見た私はどんな顔をしていたんだろう、と今でも思う。


あの日のあの時ほど、生ぬるい気温であったのにも関わらず「冷えた空気」だと感じたことはない。これからもおそらく滅多にないのだろうと思う。


その日の晩に父親のSNSが更新されていて、「今日は余計な支出が増えるところだったけど、回避してギャンブルに投入したら当たった、ギャンブルに来て良かった」という内容の投稿があった。



父の日、という単語が視界に入るこの季節が嫌いだ。


未だに親と縁を切りきれてはいないから、数週間前から贈り物で悩むことになる。
私は父親のことを父親だと思えていないのに、世間は当然のように父親の存在を認めて、感謝をしろと強要する。
あの日私に味方してくれた母親でさえも、父の日なんだから何かあげなさいよと私に言う。


SNSでもCMでも広告でも当然のように特集が組まれている。
その言葉に傷付いたとしたらそれに耐性がつけられない自己責任で、打たれ弱いのが悪いとされる風潮があるし、それについて私は一定の理解はあるけれど、それゆえに自分の弱さを自覚させられるから嫌になる。


周囲から憐れみの目を向けられるのが嫌だ。

周囲の人間が私を弱者扱いし、何にもならない同情をし、自分の恵まれ具合を認識するいい種になる。
あの子可哀想だよね、なんて噂話になる。
それが嫌で強がって、ここまで生きてきた。
私は表向きには、病気で先が長くないのに明るくて、面白く、能力があって強い人、だと思う。
そういう印象を作っている。

それは人に「可哀想」と思われるのが嫌だから。
そして、感情的配慮をさせるのが嫌だから。
あと、シンプルにそんなにネタにならない話だから。(だって面白いか?この話……)


弱さを自覚することに耐えられない私は、そうやって過去から逃げて、人に見せないようにして、折り合いをつけられずにいた。



昨日カウンセリングに行った。1周年だったらしく、カウンセラーにすごく褒められた。
この1年でできないことがどんどんできるようになってますよね、体力もついたし、自分の感情についての言語化がうまくなってますよね、と。

私は感情の言語化をして自分の弱さを自覚するのは苦しいし、まだ親との口論になると自分の意見が言えなくなってしまう。
でも、なんだか確実に進んでいるらしくて、それなら、もしかしたら今年はできるかもしれないな、と思った。


今年は父の日に贈り物をしない。


たぶん、たかがプレゼントだと思う。わざわざ渡さずに問題を起こすより、適当に媚び諂ってあげたらいいと、面倒ごとを起こしたくない私は理屈の上ではそう考える。
きっと事なかれ主義の母も同じように言うだろう。あえて逆らうなんて幼い、我慢すればいいと。
あと、普通に金には困らなかったんだから、感謝するべきなのだとも思う。

一方で、このプレゼントをあげたら私は傷付くだろうということが、だんだんと私の中で明らかになってきていた。

たかがプレゼントだ。
でも、私の中ではきっとこれは大きな意味を持っている。
これで折り合いをつける、ということにする。


私がもう少し先の未来でこの決断をしたことに思い悩まないように、こうやって人に見える形で、記しておこうと思う。
どうかこの決断が、弱いものでありませんようにと祈りながら。


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