無題 #0320
無人のレストルーム。煌煌と白い蛍光灯が磨き上げられた大理石を照らし、両脇に設えられた横長の鏡には互いの姿が映し出されて延々と視界の端まで対称形を成している。建物内の喧騒は此処には届かないようで、種々の無機物が息を潜める張り詰めた静寂だけがある。やがて、遠くから音が一つ。沈黙を破り近づいてくる。
男は小太りで、芥子色のスーツを着ている。首の後ろと背の間にだぶついた肉が段を作り、毛穴の一つ一つからじわじわと汗が滲んでいる。彼は自身のすぐ後に、黒いスーツを纏った男が入ってきたことには気付かない。長身の男は小太りの男の歩調にぴったり靴音を重ね、一番奥の個室のドアを彼がせかせかと開けた時その身をするりと滑り込ませる。錠が下りる。
水音。
微かに、呻き声。
無音。
水が流れ切ったのち、黒いスーツの男だけが個室から出てくる。何か糸状の物を巻き付けるような仕草をしながら鏡まで歩き、透明で鋭利に細いそれを胸ポケットへと仕舞ってから手を洗い始める。純白の琺瑯に、赤が渦を巻いて流れる。
パパ、と入口で少女の声がする。
スーツの彼は少女に目を向ける。人形めいた顔をした男だ。艶のある黒髪が揺れて、涼やかな青い瞳に少女の金髪が反射する。少女は左右を確認し、おずおずと中へ入ってきた。男は依然水を流したまま、少女が近付いてくるに従い視線を落とす。
「パパ、見なかった?」と少女は尋ねた。
「パパ?」
「うん。あのね、おにいさんよりちょっと小さくて、おにいさんよりうんとまるいの。見なかった?」
「丸い? さあ、僕は見てないな」
「おかしいなあ。こっちのほうにあるいていくのを見たのよ、たしかに」
少女は爪先立ちをして台に指をかけ、覗き込む。少女の鼻は男が使ったハンドソープの香りだけを捉える。
「あら、まっ赤!」少女は笑った。「おにいさん、えのぐあそびしたの?」
「うん」男も笑う。「だけど、なかなか落ちなくて」
男はミントグリーンのソープを赤く赤く泡立てて、爪の間まで丹念に洗った。少女は流されていく泡に見とれ、男が蛇口を捻り、ハンカチで水気を完全に拭き取るまでの仕草を逐一凝視した。
「お嬢さん」彼は畳んだハンカチを収める。
「君のパパを捜そうか。きっとどこかにはいるよ、大丈夫」
「おにいさん、手つだってくれるの?」少女の瞳が輝く。「ほんとう?」
「ああ。それで、どんなお父さん?」
「あのね、とってもはでなスーツをきてる。マスタードみたいな!」
「はは、そりゃ目立つな。すぐに見つかりそうだ」
「うごきものんびりしているの。おいつくのだってかんたんなはずよ」
少女は勢い込んで小走りにレストルームを出て行った。男はその背を微笑んで眺め、そうして静かに胸ポケットを叩いてから、後を追う。
無人のレストルームが残る。言葉を持たぬ物達の、張りつめた呼吸だけが、ある。
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2017/03/20:Tumblrにて発表/カーティスと見知らぬ少女
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