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家族の話

 今年(2022年)、アニメーション映画『RE:cycle of the PENGUINDRUM』が公開された。この映画は十年前(2011年)に放送されたTVアニメ『輪るピングドラム』の物語を「再構築」したものであり、「君の列車は生存戦略」と「僕は君を愛している」の前後編で公開された。
 本稿ではこの劇場版の完結にあたり、過去のTVアニメ版をふり返りながら『輪るピングドラム』という物語の今日的意義を改めて考えてみたいと思う。
 本記事では「ネタバレ」をTVアニメ版・劇場版共に可能な限り行わないように努めている。本記事が『輪るピングドラム』を観たことのない人の視聴のきっかけとなれば幸いである。

『輪るピングドラム』とは?

 前述の通り『輪るピングドラム』はアニメ作品である。2012年に全24話のTVアニメシリーズとして放送され、今年(2022年)に劇場版が前後半に分けられ公開された。劇場版についてもTVアニメ版より制作スタッフの変更などがあったが、監督・脚本は幾原邦彦が担当しており、一部シーンの追加・削除はあるものの物語としてはTVアニメの「再話」と考えて良いものとなっている。

 そして、この『輪るピングドラム』の物語内容についても紹介したいが、残念ながら「三人の兄妹を中心に彼らと彼らを取り巻く人々との葛藤を描いた物語」以上の概略をここで述べることは難しい。

 というのも『輪るピングドラム』では強い個性を持ったキャラクターが多く登場し、物語は特定の視点に留まることなく彼らの視点を絶えず移動することで展開してゆくためである。さまざまな登場人物の視点で描かれたサブストーリーがメインとなる物語と密接に関係、互いに混ざり合うことで『輪るピングドラム』という大きく複雑な物語を構成しているのだ。よって、その一つを切り出してこのような物語であると説明することが難しい。

 さらに、この作品で幾原邦彦が用いる独特な表現もこの難しさの一因ともなっている。それは作品のタイトルにも含まれる主人公らが探し求める「ピングドラム」を始めとする「謎のワード」の多用や物語を現実と幻想との境界ともいえる曖昧な世界で語ること等が挙げられる。これは他の幾原邦彦監督作品にも共通して言えることだが、物語は常に視聴者側に開かれており、見る者によって作品のイメージを大きく変える働きを持っている。「『ピングドラム』を探す物語」と説明したところで、その意味はまったく不明であろう。

『輪るピングドラム』のテーマ

 次に、そのような複雑な物語構造・内容を持つ『輪るピングドラム』を通じ幾原が示したものとは何かを考えてゆきたい。幾原は過去のTVアニメ放送中に雑誌のインタビューでこの作品の目的を度々問われている。彼はその回答として幾つかの問題意識や作品に影響を与えた出来事を語っているが、ここではその内の一つでこの物語の制作ときっかけとも言える「家族」の問題を挙げたいと思う。まずは、幾原の発言を引用しよう。

 そうですね。「家族の話をしたい」というのが強くあります。「家族の形を繋ぎ止めようとしてあがく若い人の話をやりたい」というのがあって、そこから逆算的に、「家族とは何なのか?」があぶり出されてくる……。そのディテールをやりたい、と思いましました。⁽¹⁾

 幾原はTVアニメ放映時に『輪るピングドラム』に関するインタビューを複数受けており、その中で繰り返しこの家族をテーマにしたことを語っている。たしかにこの物語に登場する人物は皆共通してこの家族に関する問題を抱えている。それは加害者家族に対する非難感情や幼少期の父母からの拒絶の記憶など様々な形で物語中の現在を生きる彼らに暗い影を落としている。物語はそうした家族に否定された彼らが再びその存在に向き合い、その関係を取り戻し得ようと奮闘する姿を描く。

 このような家族をめぐる問題というものは今日この実世界を生きる私たちにとってもアクチュアリティの強いものであると言える。例えば、世帯の家族類型の昭和から平成、令和への変化はそれを示す好例であると言えよう。かつては両親と子供が一緒に暮らすということが一般的であったが、ここ数十年の間に単独世帯が全体に占める割合は急増した。これが家族関係の希薄化をそのまま意味するものとは私も考えないが、家族との結びつき方が大きく変化していることは間違いないだろう。

 また、家族の構成についても大きな変化は認められる。ひとり親世帯の家庭の数は過去最大となり「シンママ」や「シンパパ」という言葉も今日では一般的な言葉になった。また、ヤングケアラーと呼ばれる子供たちの存在が社会問題化し、近年の同性愛の受容より同性カップルの育児にも多くの関心が集まっている。社会の変化に合わせて家族をめぐる問題は多様化複雑化し続けているのだ。

 そうした家族というものが不定形な社会の中で、旧来の家族観というものは時に私たちを苦しめる。つまり、前時代的な過去の「父親」「母親」「子供」といったロールモデルは私たちを絶望に縛り付ける場合がある。昨今のSNS上の発言に見られる反出生主義の誤読や『母親になって後悔している』⁽²⁾という書籍の話題はまさにこうした理想と現実とのギャップのから生れたものであると言えるだろう。『輪るピングドラム』の登場人物らの苦悩はその「重さ」は異なっても私たちが生きる現実に確かに認められる問題なのである。

『輪るピングドラム』のメッセージ

 では、そうした複雑多様化する社会の中で家族とは何なのか。

 ここで『輪るピングドラム』の話に戻りたい。劇場版後編のサブタイトルは「僕は君を愛している」となっている。この副題にも含まれる「愛」の重要性について幾原はTVアニメ版より強く意識している。そして、この愛こそが先の家族を成り立たせている力だとするのがこの『輪るピングドラム』という「家族の話」の結末だと言えるだろう。ここで少し長くなるがもう一つ幾原のインタビューでの発言を引用する。

「家族」なんていうのは、それこそ『サザエさん』みたいに、幻想の日本の家庭として置かれている部分もあるじゃないですか。これから少子化がどんどん進んで、世界的な状況も鑑みると、更に「家族の形」は細分化していかざるを得ないはずですよね。それこそ、片親しかいない家庭も当たり前の話で。ものすごく複雑になっていくと思う。お父さんが連れてきた兄弟とか、いろんな国籍の家庭があったり。そうなったら、それが僕たちの日常になるわけじゃないですか。すでにその渦中にいる人もいると思う。だから、どこかしら「自分たちの未来についての話である」と感じてもえらえるものであればなぁ、と思っているんですよ。あの震災で感じた部分も、そういうことじゃないのかな、って気がした。「僕たちの愛しいものは永久に存在しているものじゃない」ということを実感してしまった。⁽³⁾

 この幾原の発言は私がここまでに論じて来た内容と一致しているはずである。そして、これは『輪るピングドラム』中で語られる各登場人物らの物語として作品中にも確かに表われている。物語の中で私たちは登場人物の一人一人がそのはじまりは異なるにせよ互いを愛することで家族へとなってゆく姿を目にする。「家族だから愛すのではない。愛しているから家族なのだ」。家族とはそうした愛の基に成り立つ関係を意味する。この基本原則に立ち返ることを私たちが生きる今日という「未来」では求められているのだ。

最後に

 以上で『輪るピングドラム』が「家族の話」であることが理解できたはずである。そして、その「家族の話」とは様々な「家族の形」が現れる未来の中で、私たちがどうやって彼ら愛する人びととの関係を守り保ち続けるかという話であった。

 そうだ、偶然にも劇場版の前編と後編の公開の間に安倍元首相が銃撃される事件が発生した。犯人の男はその犯行の動機として母親のある宗教団体への多額の献金に始まる家庭環境の崩壊を挙げている。だが、この事件の報道は発生から僅かな時間しか経たぬうちに政治の宗教との問題へと変えられてしまった。無論、私もこの新たに登場した問題を問うことを否定するつもりはない。ただ、あくまでもこの事件は一人の男の家庭の問題を端に発したものであるということを忘れるべきではないだろう。ではでは……。

   註

(1)「幾原邦彦ロングインタビュー」『オトナアニメディア vol.2』2011年10月3日号、学研、p.5
(2) 「“言葉にしてはいけない思い?” 語り始めた母親たち」NHK  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220523/k10013634851000.html (2022年8月11日閲覧)
(3) 「幾原邦彦ロングインタビュー」、前掲書、p.8

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