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子どもには子どもの世界がある──『リコリス・リコイル』における「学生服と銃器」の象徴的意味について

 本稿は『リコリス・リコイル』の物語における「学生服と銃器」の象徴的意味を『セーラー服と機関銃』との比較より明らかにすることを目的としている。

『リコリス・リコイル』と「リコリス」

 『リコリス・リコイル』とは、2022年7月より放送が開始された日本のTVアニメシリーズ作品である。制作会社は過去に『ソードアート・オンライン』をはじめ数々の人気アニメ作品を手掛けたA1 Pictures、監督は本作を初監督作品とする足立慎吾が担当している。

 物語は錦木千束と井ノ上たきな(以後、それぞれ「千束」と「たきな」と表記)という二人の「リコリス」を主人公に、彼女たちが様々な事件に立ち向かってゆく姿を描いたものである。「リコリス」とは物語が舞台とする架空の国家 ・・・・・「日本」で犯罪の未然阻止を使命とする組織「DA」の実働部隊員(実際に犯罪企図者の対処を行う隊員)を意味する。

 そして、『リコリス・リコリス』の映像の中でこの「リコリス」の少女たちは学生服を模した制服と様々な銃器を装備した姿で描かれる。制服はジャケットとスカートが一体となったワンピース型のもので隊員の能力に応じて三色存在、銃器は各隊員ごとに異なるハンドガンが支給されている¹⁾(銃器については状況に応じて拳銃以外の火器を使用する場合もある)。物語中では銃器の使用が制服を着用している場合のみとの規則が複数回紹介されており(第4・6話)、『リコリス・リコイル』の物語において「学生服と銃器」が分け離すことのできないものであることが強調されている。

『リコリス・リコイル』と『セーラー服と機関銃』

 このような「学生服と銃器」といった不可思議な組み合わせが想起させる作品に『セーラー服と機関銃』がある。赤川次郎が1978年に発表したミステリー小説で、1981年公開の相米慎二監督によるこの小説を原作とした同名映画がよく知られている(以後、本稿でも『セーラー服と機関銃』はこの映像化作品のことを指す)。

 実際、この『セーラー服と機関銃』は『リコリス・リコイル』放送開始時にも一部のアニメファンよりその類似性が指摘されていた。その一例と言えるTwitterのメッセージを引用する。

 たしかに、引用メッセージ中の画像にある『リコリス・リコイル』での学生服姿の井ノ上たきなが敵の一団を機関銃で掃射するシーン(第1話)は『セーラー服と機関銃』の一シーンを彷彿とさせるものである。薬師丸ひろ子演じる主人公泉叶がセーラー服姿で敵組織である浜口組の事務所へと乗り込み機関銃を放つあの有名なシーンである。

 このように『セーラー服と機関銃』と『リコリス・リコイル』の二つの作品には共通点がある。しかしながら、本稿が以後分析の対象とするのはこうした映像演出上における「学生服と銃器」についてではない。本稿の関心は「学生服と銃器」が物語の中でどのような象徴的意味を担わされているかについてにあり、それを『セーラー服と機関銃』と『リコリス・リコイル』との比較より明らかにすることが目的である。

「学生服と銃器」に意味はあるのか

 だが、そもそもこの二つの物語において「学生服と銃器」は何らかの象徴的意味を担わされているものなのだろうか。つまり、『セーラー服と機関銃』と『リコリス・リコイル』が比較しうる作品であるかとの問いがまず前提としてある。

 この問題については本稿の先行研究とも言える吉野樹紀による『セーラー服と機関銃』の分析を答えとしたい。吉野は「文化テキスト論と映画解読」という論文の中で、前述の『セーラー服と機関銃』での機銃掃射のシーンについて下記のような考察を行なっている。

 さて、この映画で、ヤクザの世界にはいりこんだ泉がセーラー服を着るのは高校を退学になった日の晩までである(すべての事件が終わった後の後日譚では、泉はセーラー服を着ているが、その時には復学しているので、一応これは除外して考える)。すなわち、ここにおいて、泉はそれまでの「日常の世界」であった「学校」と訣別しているのである。それが、ラスト近くになって浜口物産に殴り込みに行く時にはセーラー服を着こんでいる。タイトルが『セーラー服と機関銃』というからには、機関銃をぶっぱなす時にはセーラー服を着ていなければならないのだろうが、セーラー服を着て殴り込みに行く必然性はないはずだ。ここで泉がセーラー服を着た意味は何であろうか。……(後略)……²⁾

 吉野に従えば「セーラー服を着て殴り込みに行く必然性はない」ことが「セーラー服と機関銃」が何らかの「意味」を持つことの根拠となると言う。たしかに、このような「チェーホフの銃」的解釈は近現代以後の物語に対していくらかの疑いがあるものである。ただ、『セーラー服と機関銃』ではこのセーラー服姿での機関銃掃射以外にも葬儀場面での口紅や人混みでのスカート捲りなどの何らかの象徴機能を持つと思われる恣意的なシーンがいくつも差し込まれており、そのすべてを無意味なものと考えるのはあまりに不自然ではないか。よって、本稿も吉野の「必然性」を理由とする「セーラー服と機関銃」に何らかの意図が込められているといった考えを支持したい。

 そして、このような「必然性のなさ」は『リコリス・リコイル』についても認められるものである。先の「リコリス」に関する説明で述べたように彼女らは銃の使用時に制服の着用が義務付けられているが、物語中でその理由については明らかにされない。たしかに物語中でたきなが学生服姿である理由を求められた際にはその「合理的」な理由として「JKの制服」が「都会の迷彩服」の機能を持つことを挙げてはいるが(第2話)、それも「JKの制服」を着用する絶対的な理由とは言えない。なぜなら、彼女たちが身につけている制服は彼女たちを狙う敵対組織にも認識される特徴的なものであるし(第6話)、社会に紛れることが目的であれば学生服以外の選択肢があっても良いと考えられるためである。

「学生服と銃器」の象徴的意味

 では、ここからは本論とも呼べる『セーラー服と機関銃』における「セーラー服と機関銃」から『リコリス・リコイル』の持つその象徴的意味を考えてゆきたい。

 まず『セーラー服と機関銃』よりその分析を行ってゆきたいが、この分析についても前節でも引用を行った吉野樹紀の考察を参考にする。吉野は『セーラー服と機関銃』という作品タイトルについて、「セーラー服」と「機関銃」の持つ意味を物語との関係から下記のように解釈している。

 『セーラー服と機関銃』というタイトルの持つ奇抜さ、おかしさは、現代日本の文化状況を背景として成り立っている。セーラー服を着るのは、現代の日本では、一般には女子の高校生化中学生である。すなわち、セーラー服という記号によって表現されるものは、ある一定の年齢にある少女である。……(途中略)……まだイノセントである少女が「大人の世界」、さらにいえば、彼女の「日常」から最も疎遠であると考えられる、「機関銃」によって象徴される「ヤクザの世界」と結び付けられるというところに、この物語の第一の契機がある。³⁾

 つまり、吉野によれば『セーラー服と機関銃』における「セーラー服と機関銃」とは物語で描かれる「少女」と「大人の世界」との対置を示すものであるという。

 このような「少女ー大人の世界」といった対置関係は『リコリス・リコイル』の物語にも見出だせるものである。それは主にこの物語の主人公で「リコリス」である千束と「DA」あるいは「アラン機関」といった組織の対立関係によって表現されている。物語世界の中で「リコリス」たちは一般的に「DA」の寮に住み本部からの指令を受け任務へとあたっているが、千束はその組織を離れ一人で生活し「喫茶リコリス」の仲間と共に「DA」とは独立して活動する。また、千束は特殊な「殺しの才能」を持っており「アラン機関」はその能力を社会へと結びつけ活かそうと画策するが、千束は常に戦闘で「ゴム弾」を使用し敵味方の区別なく人命を守るために行動する。これらの組織と千束との対立は、まさに「少女ー大人の世界」の対置が具体化されたものであると言える。

監督・足立慎吾が描きたかったこと

 また、『リコリス・リコイル』の物語でのこのような対置関係については監督、足立慎吾自身も物語の外で述べているところである。ここで足立の『リコリス・リコイル』に関するインタビューでの発言を引用したい。

足立 そう。才能って自覚しないもんだし、他人から指摘されても自分はそう思わないもんでしょ。才能じゃなくて努力だ!って思うかもしれないし……。他人が観測する自分の才能や、それに付随する周囲の期待は、自分の認識とはわりと乖離があるもんだと思うし、誰しもそれに悩んだ経験はあるんじゃないかな? 足立にしたって、脚本や演出なんかやってないで絵描いていろよ!って思う人もいるでしょ?(笑) わかるよぉ?(笑) アラン機関は「あなたの才能はこれで、この生き方があなたにも世の中にとっても最善なんだ!」と言ってくる存在です。それに救われる人もいると思うけど、それがすべてじゃないこともたぶんみんな知っているよね? 千束はどんなアンサーを出すんでしょうね。⁴⁾

 足立がここで述べているのは「自己の認識ー他人が観測する自分の才能」といった対置関係であるが、この対置は「少女ー大人の世界」の言い換えであると言える。というのも、足立はこの発言の後「子に対する彼ら親の考えにも耳を傾けてほしい」と続けて述べており、この「自己の認識ー他人が観測する自分の才能」との対立が千束の「自己の認識」の単純な肯定だけで解決されることのない問題であることを示している。つまり、そこにはやはり親という「大人の世界」が存在するのである。

最後に

 以上より『リコリス・リコイル』での「学生服と銃器」とは『セーラー服と機関銃』と同じく「少女ー大人の世界」といった対置関係を象徴するものであることが解った。それは作中では物語の主人公である千束によって表現されており、「自己の認識ー他人が観測する自分の才能」として具体化されていた。

 ところで、この『リコリス・リコイル』の物語は私たち大人と子供の未来との関係について再考させるものであるとも言える。私たち大人は子供を自分らの世界から切り離しておきながらも、なお子供たちを大人の論理で計り続けている。本稿が主題とした「子どもには子どもの世界がある」とは児童文学者の小出正吾の言葉であるが、私たちは彼ら子供たちの選択というものをもう少し信じ認めることが必要であるように思う。「リコリス」の少女たちが向けた銃口の先には自分たちの都合しか考えない私たち大人が立っているのではないだろうか。

   註

1) 千束とたきなが携帯する拳銃が異なるものであることより。
「リコリス・リコイルの銃器やモデルは?銃の持ち方や構え撃ち方についても」笑劇9 https://farcenine.com/lycoris-zyumoderu-424-8987 2022年8月26日閲覧
2) 吉野樹紀「文化テキスト論としての映画解釈」沖縄国際大学日本語日本文学研究 2004年 p.9
3) 吉野樹紀 前掲書 p.4
4) 「『リコリス・リコイル』足立慎吾が初監督作品で描きたかったこと②」 Febri https://febri.jp/topics/lycoris_recoil_int1_2/ 2022年8月26日閲覧

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