【詩】ある春の気球学入門   

正午のサイレンの余韻がまだ響いています
とろとろと眠ってしまいたい春の午後のはじまりでした
どうしたことか突然妻がふくらみはじめたのです
 
今日まで職にもつかず稼ぎもなく蕗など食べて妻を
揉んだり捏ねたり転がしたりなどして遊んできたわたしです
自称びんぼう太りの毬のような妻はころころ
それはおもしろいように転がるのでしたが
 
さきほど二人で食べたドーナツが原因なのでしょうか
ふくらし粉が溶けずに固まりで入っていたのでしょうか
おくびをひとつふたつとするわたしのそばで
にわかにみるみる妻がふくらみはじめたのです
 
パンにも金にも家にも愛にもこだわらない男のそばで
さびしく肥えた女の腹部が今さらに膨張しだしたのです
愛よりも大きな球体となりどんどんわたしに迫り来る妻の声を
手をばたつかせて何かぱくぱくと口をうごかす妻の声を
わたしは聞きとれないのです
 
ぱんぱんに張り切ったみごとな女体
それは憎悪のようにも希望のようにもみえるのですが
今にも破裂しそうに膨らんでかすかに浮かびつつある妻を
部屋いっぱいになる前にベランダの窓を開けて
外へ解放してあげるやいなや
するすると肉色の球体は空に昇っていったのです
 
妻よ 親しい他人の君よ
おまえは空から米やパンをひねり出し
今日また不可能から可能へと飛び越える
うららかにおまえはいま羨ましいほど自由だ
 
                    (さようなら詐欺師のあなた)
            (ごきげんようペテン師さん)    
      (奪うばかりのイカモノ詩人さん)
 
                   何をいっているのか
               口をぱくぱく動かす
           それは大きな風船になった妻を
       わたしは眼で追います
   
   五月の風に乗って春の午後
ヒバリは空に
カラスも飛んで
 

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