見出し画像

亡き猫の「らしさ」の追憶

飼い猫が亡くなってから2か月半。

私も夫も「猫の不在」にじわじわダメージを受けつつある。
猫はそこにいるだけで、幸福な空気を生成し、まき散らしていたんだなと
改めて実感する。

「また新たな猫を迎えればいい」という考え方がある。
それ自体は全然悪いことではないと思う。

うちの猫はロシアンブルーだった。
猫種としての傾向はあるかもしれないが、
同じロシアンでも、性格がまったく同じということは当然あり得ない。
だから再びロシアンを飼うとしても、
「同じ」なのに「違う」ことに気づいて、悲しくなるだけかもしれない。
ゆえに、猫を新しく迎えるとしても、おそらく別のタイプの猫になるだろう。

先日、『A Numberー数』というシュールな演劇を見た。

息子を亡くした父親がそのクローンを作って一緒に暮らしていたが、医師が勝手に十数体もの息子のクローンを作っていた事実が判明するという話。

姿形はまったく同じだが、考え方や立ち居振る舞いが全然違う
息子のクローンたち。
父親は、自分の愛した息子の面影を求めて、あるクローンに
「あなたらしい特徴を教えてほしい」と頼む。
そのクローンは自分の家族や趣味、思想などを話すが、
どれも父親が求めている答えではない。
息子のクローンに「一体、何を知りたいんですか?」と問われるが、
父親は明確な答えを返すことができない。

彼が求める「息子らしさ」とは、言葉にした途端、意味をなさなくなるほど些細な、それでいて重要な特徴だからだ。
例えば、「犬を見てどんな気持ちになるか」とか、日常何気なく交わしていた会話の中にそれは宿っている。

うちの猫の、ごはんをねだるときの目つきとか、額を撫でたときの目の細め方とか、記憶に残る特徴はそれこそ無数にある。
でも、それを誰かに話すと、「ああ、猫ってそうだよね、そういう顔するよね、そんな反応するよね」と言われてしまう。
ちがうちがう、一緒にしないで、と思う。

当たり前だけれど、存在するあらゆる生き物は唯一無二であり、
それが失われてしまえば、二度と代わりは現れない。
他の存在で簡単に埋められるようなものではないのだ。
そう思うと、自分の中にぽっかり空いた「彼の不在感」を、
しばらくはそのまま見つめていたい気がしてくる。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?