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アルバイトに自我は必要か

アルバイトに自我は必要かーこのテーマについて論ずる前に、ここでの「アルバイト」を定義づけしなければならない。

アルバイト、特に学生のアルバイトの場合、大きくふたつに分類することができる。「モノを売る」アルバイトと、「経験を売る」アルバイトである。前者はいわゆるサービス業のことで、コンビニの店員や飲食店でのアルバイトがそれにあたる。後者は自らの経験をもとに行う職種、塾の講師やスポーツジムのトレーナなどだ。もちろん、この定義は全てを包含するモノではないけれど、ひとつの指標としては十分だろう。本題について議論する際にも、この定義に基づいて進める必要がある。

まず、「モノを売る」アルバイトの場合自我は必要とされないだろう。というよりも、自我はかえって弊害を生みかねない。アルバイトとして働く私たちは社会の中での役割を演じることを強制されている。自分らしさは必要とされず、「店員」であることを忠実に演じることが求められている。そこに自我やアイデンティは必要とされていない。彼が田中さんであろうと佐藤さんであろうと、私たちからしたら「店員」でしかないし、彼が田中であることを主張されたとしてもただ困るだけである。仕事のやりがいだとか、工夫はあくまで個人の中においてのみ許されるものであって、社会を変えるような効果は期待されていないし、台本を破る役者は舞台から排除されて当然だろう。

次に「経験を売る」アルバイトの場合、そこには一定の自我が入り込む余地がある。塾の先生であれ、今まで培ってきた知識をもとに生徒に教えなければならないのだから、その点で自我は必要である。しかし、それは自分なりの勉強方だとが、コツまでは求められていない。知識や経験があることを前提としながらも、やはり「先生」「トレーナー」としての役割を演じなければならないのだ。学歴や経験は役者として売り出すためのレッテルでしかなく、その先は台本通りに動くことを強要される。清純派として売り出されている女優でも、滑稽なシーンを演じなければならないように。

「役割を演じればいい」と聞くとそちらの方が単純で簡単なような気がするけれど、僕にとってこれほどの苦痛はない。塾の先生である僕は、自らの経験や独自の勉強法は全てエゴイズムとして必要とされず、大手塾のメゾットに忠実な「○○塾の先生」であることを強要されているわけである。それでは僕である必要はない。自分なりの指導法と相反する指導を強いられることは苦痛である上に罪悪感に苛まれるのだ。だからこんなアルバイトはやめてしまおう。

幸い、僕は小さな個人塾でも講師をしているのだけれど、そこではこんな葛藤に苛まれることはない。成績をあげれば良いといった実力主義で、僕は「すが先生」として自我を前面にさらけ出してアルバイトに勤しむことができる。ようするに、僕は僕として認められないことが怖くてしょうがない弱虫でわがままなアルバイターなのである。

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