『盲目と少女(と、)』


 川端康成『掌の小説』という短編集の『盲目と少女』という作品を読んで大事なことを思い出したので記録する。

 『盲目と少女』は特にここで取り上げたい点を簡単に言えば盲目の人が指先に目が付いているように物の位置や建物の場所などを把握しているという話だ。私はこれを読んでいる途中に去年だったか、一昨年だったかに渋谷駅の構内で点字ブロックから大きく逸れた場所で立ち往生している白い杖の男性に、念のためと思って声をかけたこと、そしてそこで感じたことを鮮明に思い出した。

 男性は実際困っていて、半蔵門線へ行くのに迷ってしまったようだった。助けないわけにはいかないのでご案内しますよ、と言ったら男性に「肩を貸していただいても良いですか」と聞かれ、肩を貸した。手がとても温かかった。確かほんの150メートルくらいだったからとても短い時間だったけど、ゆっくり足を進めながら、お話しながら歩いた。よく渋谷来るんですか、何回来ても私も覚えられないんです、複雑すぎますよね、とか、私は大学生ですよとか、そんな他愛もない話だった。改札に前まで来た。「ここでもう大丈夫です。」と言われたけれど、心配だし、私定期あるから入り放題だし、一緒に改札を通った。半蔵門線のホームに向かう階段の前まで来た。今から階段降りますよ、と言ったら「もうここまでで大丈夫です。」と言われた。私は「向かって左が押上方面、右が中央林間方面です。お気をつけて。」と言って男性と別れた。男性は指先に目がついているかのように確かな足取りで階段を降りていった。

 私がこの出来事の中でとりわけ印象的に残っているのは男性とのコミュニケーションだった。私は男性の姿、見た目、顔がわかるけれど、男性は私の声しかわからない。実際、案内している時は私が先を歩いていて、男性のことも見えないから私と男性はほとんんど肩から互いに伝わる体温と声だけでつながっていた。私は相手が私の見た目を知らないことにどこか安堵していた。この人は私への先入観がまっさらな状態で話してくれているんだとか、見た目もどんな姿かもわからない今出会ったばかりの私のことをこうして信頼してくれているんだとか。私たちは通常の対面する、目と目を合わすコミュニケーションよりも交換している情報が少ないはずなのに、それ以上に心での深い繋がりを感じて、ずっと広くて明るいものを感じた。心が温かかった。この出来事を思い出した今、駅の地下での出来事だったはずなのに開けた明るい外で私と男性が歩く姿が真っ先に浮かんだ。それくらいに心に温かくて、爽やかな風が吹き抜けるような出来事だった。

 『盲目と少女』で、この記憶、感情を呼び起こす明確な引き金となったのは、盲目の田村が鏡を動かして「林に夕日があたっているだろう」と少女に問いかけ、少女は自宅で盲目である田村に言われて初めて林を見るような気がした、というシーンであった。田村は林が見えていないはずなのに、目が見える人間以上にそのものを感じとり見透かしているような、心の目でじっと見ているような印象を受ける。これがどこか私の体験のと通じるところがあるように感じた。私たちは目で見たものを元に物事を判断したり、見慣れた景色は見過ごしてしまったりするが、感じとるのは心であって、単に視覚情報を享受するだけでは見えないことがたくさんある。それは人との関わりでもそうであって、視覚にだけ頼っていたら見えるはずのものも、受け取れるはずのものも受け取れない。

 大切なものを見つけるために私は一旦、目を閉じる。

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