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絶界への路

終わらないために
全ては同定のためなのか。そうではない。そうでは全くもってない。終わりたくないのだ。まだ終わりではないと考えたいのだ。驚きが、その驚きが恋しいに違いない。

全ては無駄なのか?
見よ恐ろしい火を。技術への路上はいまだごうごうと燃えている。学問は学問のために捧げられるならば直ちに閉塞する。ものを見分け、定義し、同定することはそれそのこと自体のために、つまりそれらの操作自体のためになされるのだろうか。そんなはずはない。もしそうなら学者は言いたいことを言いたいだけ言っただけであり、または信じたいものを信じたいだけ信じただけであることになる。つまり言い終わる瞬間に全ては夢だったかのように無意味なものになってしまうということではないか。

技術へ
何かが、つまり驚くべき何かがあるはずである。そのためには使えるものは全て使うことにしなければならない。”使う”ということ、私が強調したいのはそこだ。

不可変性と演算
概念的思考は一切の経験から少なくとも独立しているのだという。これは与えられるものの一切がそうであるという訳ではない。すなわち与件されるものがではなく、”作業それ自体”つまり与えられた直後から始められるようになる”演算性の操作”が全て経験から独立した性格をもつということである。

経験と霊魂の尽きるところ
まず無限性、すなわち計り知れず底知れないもの。あるいは不断なる未踏。あの壁の向こう、奈落の底、世上の消尽点。次に一切の経験であっても無効化しさえするような、転倒な霊魂の全きふちべ。

非知による認識論の自死と最小単位化
”非知”の理論をこの消尽線には当てはめない。隙間によって”非知”の理論はより明らかであるが、不可知なものを与件のなかに設定することは狭い意味で遂行されるに過ぎない。この遂行はある注意を促すところにあった。苦慮の一切がいつでも例外なく夢として”削げ”落ちてしまうことである。つまり”認識論の自死”への恐れの告白としてのそれである。戯れから非知を求める手続きは”削げ”に対して極化を乗じる演算としてなされ、認識の捧げ持たれる最小単位化への要請を認めさせる

バイオ化
与件されるものをバイオなものとしてこの手続きは再与させる。

すり切れた肉片のなかで
問題は未知であることではなく”未踏”であること。霊界の有無を誰も断定できない。空にはいかなる限界があるのか。海には底があるのか。そこに至って霊魂はいかなる経験的に可能なものを得られるのか。経験が途切れるその地点。私は肉片にすぎないのだろうか。

超常
演算性というもの(古い言い方をとるならば理性というもの)はある点までは経験に適っているがそのある点を踏み越えるとき明らかに経験を超えでる。この超出において演算性は超常なるものを可能的に与える。このように与件されるものは実際のところ経験において可能なのだろうか。生活上の経験においては可能ではおそらくないだろう。では超出において踏み越えられるのはどこであるだろうか。霊魂は可能な経験だけが経験だと見なしてはいないだろうか。


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