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社会人作家。仕事と制作は両立できるけど、別問題が出てきた説。

いわゆる「社会人」になって、5年ぐらいが経ちました。はやいものです。しかも、ついに今年は三十路。生き方にも個性が滲み出てきて、整備された線路から大幅に脱線した私は、波が荒めな沖合いの港を素足でかけている感じです。時々打ち上げられたヒトデとか踏んでる。

「作家」としていつからがスタートか、曖昧ですが、スエイシユミと読み易いカタカナで外で展示を始めた頃から、10年ぐらいが経ちました。

たくさん思うことがあるのですが、その中でも、最近、特に疑惑を感じている説があります。


この時代だからこそ、作家不在の展示がありなのでは説

展示って、なんのためにやるんでしょう。

答えは、私みたいな一個人が明言するなんてことできない議題なんですけど、そこを、無理くり言葉にしてみます。
個人的には、「作品と、作品のある空間と向き合って、そこで時間を過ごし、新しい知見や興味などを得ること」なのかなぁと思っています。

実際に、私が人の展示に行った後は、制作や仕事、日常への向上心が馬鹿みたいに上がります。ちなみに、行く前はめっっっっっちゃくちゃ、足が重いです。笑

ですが、作品と対話するということが、今は作家と対話すること、にすり替わっています。
それは、こんな世の中に物で溢れかえり、常にナラティブを考え、コンテンツ渋滞している世の中で、作品ベースに生活に繋げていく、つまりは、作品を売るという軸で見ると、やはり仕方がないことだと思いますし、すべてが悪いことじゃないです。
ただ、これも、古い形式になってしまったなぁと。

この形式に慣れ、解釈に拍車がかかると、作家はこれまで以上に「展示で会えるアイドル(?)」と化していくわけです。

私の場合「展示で会えるスエイシ」と「社会(仕事)で会えるスエイシ」の2つの私ができてしまいます。

しかも、三十路になったら、周りは忙しくて、時間が取れず、なおかつ、もう個々が居場所を持っている人たちばかりで。
そうなってくると、正直、来る側もお金とか時間とかメンタルを削らないと、展示行けないじゃないですか。
しかもコロナは止まん。もうしっちゃかめっちゃかですよね。

でも…作品見てほしい。私のことや人生なんて知らなくても、会話なんてしなくても、バックグラウンド無理に知らなくても、作品を見ていってほしい。

だって、私、作品のほうが、面白いから、ね!

ということで、この仮説を立証するためにも、展示での作家との否コミュニケーションを作ることで実験してみたいです。
恐ろしい…嫌われそう。とか言いつつ、私の中の好奇心がそれをやりたがってしまう。作家と言ってる限りは、この衝動にずーっと素直でいたいですね。

前回のノートにも書きましたが、人として、本質とか内面を探られるの、めちゃくちゃ苦手、というか不要派なんですよ。すぐおちゃらけてペラペラになります。なので、探られるなら、私という人間が不在の方がいい。

インタラクティブな体験が求められる時代だからこそ、中立でいるためにも、作家との直接的なコミュニケーションを拒否して、作品を前に立たせる展示。いいなぁ。

バーチャルスエイシ(会場にはおらず、別のところで生きてるスエイシを勝手に映像だけ見えるサイネージ)とか置こうかな。

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