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笑福亭鶴瓶って、何だ? ~「笑福亭鶴瓶落語会」札幌公演・見聞覚書~

※敬称略

何だかよく分からない存在、そして、その存在はこうしている間にも現在進行形で人智を超える進化を続けている。そうした存在を比喩する表現に「宇宙」をよく用いる。「宇宙」も、人知を超えた何だかよく分からない存在であり、そうこうしている今も膨張を続けている、らしい。未だかつて見た事のない表現をし、その表現や思考が現在進行形で進化を続けている表現者を表すという比喩としては、まさしくうってつけの比喩だと思う。

笑福亭鶴瓶は、「宇宙」か?

現在進行形で膨張は続いている。常軌を逸した人間力とバイタリティで、ありとあらゆる出会い、経験、考え方、哲学といった「人にまつわる森羅万象」を無限に吸収し続け、笑福亭鶴瓶という芸人の存在は、常に膨張し、複雑になり続けている。NHK『鶴瓶の家族に乾杯』で見せる全国津々浦々の人々との情を大切にする側面があるかと思えば、これぞ芸人という常識から外れきったクレイジーな逸話も残している。聞けば心が温かくなる話から、イカレきった話まで、その逸話の振れ幅は本当に同一人物の話なのかと疑いたくなる時がある。得体が知れない。

たが、この芸人を表現するのに「宇宙」を用いるのには、強い違和感がある。確かに何だかよく分からない存在。でも、こうした神秘性を含んだ表現が恐ろしいほど似合わない。そんな大層な物では絶対に違くて、もっと身近な物なんだろうけど、でもどこか恐ろしくて、どこか不明確で。そんな物のような気がする。

12月4日。道新ホールで開催された「笑福亭鶴瓶落語会」を観てきた。コロナ禍で落語会に足を運ぶ事から距離を置かざるを得ない日々が続き、気付けば実に2年ぶりの落語会である。秋頃から徐々にライブに行く事を解禁し始めたが「どうせ生の落語を解禁するのなら、待った分に見合うバリューのある人の落語が聞きたい」という思いが日々募り、落語会への参加だけはずっと先延ばしにしてきた最中に、この会の報せが舞い込んできた。争奪戦になる事は目に見えて分かっていたが、ダメ元でプレオーダーを申し込んでみたところ奇跡的にチケットを取る事ができ、果たして今回の参加となった訳である。今回の演目を連ねながら、眼前で起きた事感じた事を覚えている限り残していく。


鶴瓶噺

上方落語らしい、賑やかでけたたましい出囃子の中、いつも『A-Studio』や『きらきらアフロ』で見る、お洒落でラフな服装で淡々と高座へ現れた。姿が見えた刹那で一気に会場全体が明るくなってしまうオーラの凄まじさ。開演前の張り詰めた緊張感が一気に解放されていくのが手に取るように感じられた。不思議なのが、淡々と2,3言を話す内にあれだけ圧倒された明るいオーラが、自然と会場の空気に馴染んでいくかのように消えていった。オーラがゆっくり消えて無くなり、そこに立っているのは、いつも我々が片意地など一切張らず、寝転がりながら気軽に見ているテレビの中でイキイキと映っている「笑福亭鶴瓶」だった。

札幌のホテルでの受付嬢とのやり取り、札幌に住むファンの女性からもらった手紙と不思議なエピソード、待ち受けにするとご利益がある鶴瓶の「神」画像、前日に「家族に乾杯」のロケをしてきた話、前回の「家族に乾杯」での函館ロケの話、コロナ渦でのマスクによる弊害、嫁と他人を間違う、落語会でのエピソード、鶴瓶噺と落語会、ホテルで部屋から閉め出される、日常での失敗、オーラが無いからファンにナメめられる…

後半の「ファンにナメられる」という噺は、2年前の「さっぽろ落語まつり」に出演した際に、枕で話していたのを聞いた事があったが、内容を全部把握しているのに爆笑してしまった。何年経っても、何度聞いても面白い。もはや古典落語の領域に達している。会場の爆笑が収まるのを待たず、機銃掃射の如く間髪入れずに別のエピソードをぶつけ、新たな爆笑を生み出し続ける。異常としか言いようのないエピソードの量、それも「どうしてそんな事が起きる」とこちらがツッコミを入れたくなってしまうような事ばかり。エピソードトークという手法を使って、「笑福亭鶴瓶」という芸人のパーソナリティのえげつない旨味が、五臓六腑に染み渡ってゆく。

枕のボリュームを超える40分以上のトークの後、今回のツアーに同行している尺八奏者・辻本好美の紹介とパフォーマンスを挟む。静寂に響き渡る尺八の音色は、繊細でありながら、「青白く燃える炎」ような熱量を感じた。

山名屋浦里

初めて、この噺の存在を知った時の興奮は今もはっきりと覚えている。タモリが自身の番組『ブラタモリ』で吉原を訪れた際に仕入れた実話を、わざわざ鶴瓶に直談判して落語化したという。こんな夢のようなエピソードに興奮しない落語ファン、演芸ファン、芸能ファンはいない。「いつか絶対に、この噺は生で聞いておきたい」という夢がとうとう叶った。

いわゆる「人情噺」が苦手だ。身分違いの花魁と一介の職人が純愛で結ばれるだの、借金まみれの夫婦が絆を再び深めるだの、落語が世間一般でいう「美徳」とする常識の味方をこれみよがしに行っている事が、落語を聞きこむ生活を過ごす内に自然と苦手になってしまった。「嫌い」という訳ではないが、いわゆる滑稽噺を聞く時には必要としない、肩や腹へ力む事での負荷がどうにもストレスに感じてしまう。いくら前評判のブランド力が高いとは言え、この噺もこうした類の噺であろうと、たかを括って聞いていたが、想像とはだいぶ違う印象に着地した。

「良いな」と思ったのが、結末が決して飛び過ぎている夢物語になっていない所。廓での人情噺となると、主人公と華やかな花魁の純な色恋に落ち着くのが関の山だと思っていたが、この噺は主人公である侍の実直さに心を打たれた絶世の花魁が、初めて自分の意志を貫き、やがて最後には長きに渡って交流する友人関係を続けたという結末で締めくくられた。ご都合的な恋愛関係でなく、長き渡って続いてゆく友人関係で収まるという所にリアリティをあり、爽やかな感動が胸を打った。

この噺を他の誰でもない笑福亭鶴瓶に語らせようとしたのは、英断以外の何物でもない。この構想を聞いた時、鶴瓶は最初は断ったという。江戸の吉原を舞台とする噺であるから、上方の落語家である鶴瓶にとっては、言葉の壁が大きくのしかかってくる。無理もない話だ。だが、そんな中タモリは鶴瓶をこう口説いたのだという。

「本当にあった事を、そのまましゃべれる落語家に演じて欲しいんだ。それは、あなたしかいない。」

笑福亭鶴瓶という落語家の口調は、普段のバラエティでの口調そのまま、つまづきながら、どこかたどたどしい。たまに、言葉が出てきにくい事も場面も見受けられる。だからこそ、実際に起こった逸話の温度感を見事に活写し、登場人物達の純心が聞く側の心にダイレクトに伝わってくる。

今年の秋に見た、笑福亭鶴瓶を追いかけたドキュメンタリー映画『バケモン』。この中で「山名屋浦里」をメインにしたツアーの千秋楽にサプライズでタモリが花束を持って登壇し、その後の楽屋を撮影したシーンがあった。「この噺、他の落語家もやりたいと言っている」という話題が出た時、タモリはポツリと言った。

「あんまり落語落語している人には、やってもらいたくない」

作られた「作品」を演じる落語家には絶対に表現できない、実際に起こった人間同士の本当の情の交錯。これを落語という芸に昇華できるのは、笑福亭鶴瓶という落語家ただ一人にしかできない。長年を共にしてきた盟友でなければ辿り着かない視点である。

タモリ・笑福亭鶴瓶という異才奇才の化学反応で生まれた、「創作落語の奇跡」と言っても過言ではない傑作名演。

生で聞けた事を、心から誇りに思う。


お直し

鮮やかにサゲが決まり、万雷の拍手が会場を包む。自分の拍手もその万雷の中の小さな粒に過ぎないが、その力強い名演へ最敬意の拍手を送った。その最中、気づけば理由の分からない涙が頬を伝っていた。陰気な内容ではあるものの笑い所もあるし、登場人物のキャラクターも皆個性的で、賑やかな噺だったのだが、心を強く鷲掴まれた。

「お直し」と聞いて思い浮かぶのは、何といっても古今亭志ん生・志ん朝親子の名演である。特に、志ん生に至ってはこの噺で芸術祭賞まで受賞している。まさしく「古今亭のお家芸」。そんな大ネタを鶴瓶が上方落語として演じているという噺は風の噂で聞いた事はあるが、まさかお目にかかれるとは。50歳から春風亭小朝の薦めで本格的に落語に取り組み始めた鶴瓶。小朝・立川志の輔・春風亭昇太などが参画した「六人の会」にも名を連ね、先輩である桂文珍・桂南光との三人会も行うなど、遅れながらも落語家としてのキャリアを着実に積み重ねていた。そんな中で、桂南光から「鶴瓶君に似合うよ」と勧められたのが、「お直し」だったという。2013年にネタ卸しをして、今回のツアーで久しぶりに客前でかけているのだという。

「山名屋浦里」が最高峰の花魁の噺であるのに対して、この「お直し」という噺はそれとは完全に真逆、最下層の花魁の物語である。

江戸落語と違い、鶴瓶の「お直し」の舞台は上方。主人公である若い衆の亭主は上方の人間で、女房になる花魁は江戸の吉原から移ってきたという設定になっている。二人に地域差がある事で、バクチに手を出してしまったダメな亭主としっかり者の女房という構図が、より噺の輪郭をはっきり浮き彫りにする。悪い人間ではないけど、どこか迂闊で抜けている亭主となんだかんだ文句を言いながらも亭主を支えようとする女房のやり取りが、先の見えないぼんやり暗い展開の中で、明るくて微笑ましい。

中盤に、夫婦が開いた最下層の女郎屋「どぐろ(江戸版では蹴転)」に無理矢理引き込まれた酔っ払いが登場するのだが、その乱暴な立ち振る舞いや、絶妙に呂律の回っていない口調は、鶴瓶の師匠である六代目笑福亭松鶴がフラッシュバックする場面が多々あり、「系譜とはここまで血が濃く出るものなのか」と、笑いながらも鳥肌が立った。

終盤、女房からあれだけ念を押してヤキモチを焼かないと約束していたのにヤキモチを焼く亭主に、女房の不満と怒りが爆発する。今までしっかり者として描かれてきた女房の怒り泣きじゃくる様に、我に返った亭主は慌てて慰めながら、自分の非礼と情けなさに感情が決壊してしまう。この場面に、思わず心が締め付けられた。

見方によっては「クサい」という感想が出てくるのも、自然な事だと思う。それほど迫力のある描写だった。だが、自分には鶴瓶が登場人物達と真正面から向き合って、人物達の持つ「気」を嘘偽りなく汲み上げたからこその、あれだけ真っ直ぐな描き方になると感じた。この人には他人に対する「壁」という物が存在しない。相手がどんな人間であろうと、どんな境遇であろうと、全てを肯定して受け入れる。その姿勢は現実の世界でも、落語のの世界でも変わらない。落語の中でも、笑福亭鶴瓶は笑福亭鶴瓶なのだ。

その普遍で、落語というフィルターを通してありのままに自分をさらけ出している様への感動が、涙という形で外へと出てきたのかもしれない。

遮るように軽くて鮮やかなサゲ、そしてサゲを言い終わった後の美しさと哀愁が交錯すするおじぎが、夢見心地の余韻をじんわりと残しながら、我々を現実の時間へと引き戻してゆく。


万雷の拍手の中、カーテンコール。今回お囃子を担当したメンバーを一人ずつ紹介し、最後は長崎のお茶屋に行った際に知ったという風習「送り三味線」で今日来てくれた観客を送るという、賑やかな大団円となった。

開場前に指定の席に行くと、袋が置かれていた。中を見ると、パンフレットの他に、鶴瓶がCM出演をしている漬け物メーカーの漬け物が2パック入っていた。スポンサーからのプレゼントだという。帰宅後は、その漬け物を肴にして、一杯呑んだ。

「笑福亭鶴瓶って、何なんだ?」って事を考えながら。


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