ライブ備忘録~8月26日から9月12日まで~

かれこれ4年ほど前から、自分が行ってきたライブについてノートに記録をつけている。いつどのようなライブに行き、どのような演者がどのような演目をやり、どのような事を感じたかを書き溜めている。記憶と感覚の整理になるし、ときたま引っ張り出してきて、それを読みながら、芸への思い出を肴に酒を呑む。

世間がコロナ一色になる前に行った最後のライブは何だったか、ノートを紐解いた。2020年の1月11日に行ったコメディアン・清水宏のスタンダップコメディライブ。とにかく泥臭くて、その爆発的な熱量の一人語りに酔いしれた時間が懐かしく思う。ここからおよそ1年半以上、生のライブからは足が遠のいた。コロナ禍となり、行こうと思っていたライブや落語会は軒並み延期・中止。元々「たかだか、芸」と心に柵を張っているため、そこまでショックは無かったが、柵から漏れ出るすきま風は演芸好きの心にチクチクと刺さり続けていた。しんどさは無いけど、煩わしい。

そんな日々が続いていたが、8月26日から9月12日まで、立て続けにライブや映画に足を運ぶ日々が何の前触れもなく、ふらっと戻ってきた。別に「解禁しよう」と意識していたつもりは無い。たまたま自分が求めていた芸に触れられるタイミングが重なっただけの事である。

前置きが長くなったが、8月26日から9月12日までに自分が触れたライブや映画の事について、あれこれ記してゆく。


8月26日 古舘伊知郎 トーキングブルース2021 札幌公演

詳細な内容、感想については先日noteに揚げたので、ここでは簡単に。 ※ネタバレ注意。

​一生、生で会える事は無い人だと思っていた。

一生、生で見られる事は無い芸だと思っていた。

自分のわずか数メートル前で、あの古舘伊知郎がハンドマイクを片手に、その鋭利すぎる舌鋒を修羅のごとく振り回している。古舘伊知郎vs観客百数十人による1ラウンド120分の真剣勝負。2時間一切スピードが落ちる事を知らない喋りのテンポ、目まぐるしく変動し続ける話題。自分を含め観客は振り回されながら、ただ笑うだけの存在と化した。「コンプライアンス版桃太郎」の、「ならでは」のひねた視点が何重にも折り重なった話芸も爆笑の連続で素晴らしかったが、何といっても神がかり的だったのが、「アントニオ猪木実況講談」。大病と闘い続けるアントニオ猪木へ贈る、古舘伊知郎だからこそできるエール。古舘伊知郎にしか出来ないエール。天下の舌鋒は「伝統芸」を背景に宿す事で、その切れ味は誰にも到達できない高みへと鮮やかに駆け上がってゆく。「古舘節」と「講談」という天下無敵の融合。その圧巻の話芸に、会場には呼吸を忘れたかのような静寂が漂い、音の無い力強さを秘めたグルーヴが会場全体を包み込んでゆくのが手に取って感じられた。読み終わり後、会場を揺らさんが如き喝采。それを諫めて、最後数分で語られた古舘流のコロナの中を日々生きる我々へのメッセージ。忖度一切無し。本質を容赦なく突きながらも、見えない不安を掬い上げてくれる言葉に、感情の分からない涙が頬を流れた。

普段ならこういうライブの後は、終了の旨と簡単な感想をツイートするが、今回は終了ツイートだけをして、無の感情のまま帰路についた。外から何もかも自分の中に入れたくなかった。「打ちひしがれる」という言葉の意味が、30年近く生きてきて初めて分かったような気がした。


9月4日 ナオユキ 単独ライブ

漫談家・ナオユキの芸が好きだ。

noteを書くようになって、あれこれテーマを模索している内に、自分の好きな芸や芸人について、ひたすら「好き」の気持ちを自己満足に表現する形が自然と定着した。そんな内に、この人の芸を書きたいと思うようになるのは、必然だった。

ゆっくりと時間をかけながら、芸を好きになったきっかけ、憧れだった生の舞台を見に行った時の情景を、記憶を頼りに文字に起こしてゆく。疲労感もあるし、しっくりくる表現が出てこない時の生みの苦しみがしんどかったが、同時に必ず楽しさが付いてきてくれる。「文才が皆無」という事は自分が一番よく理解している。それでも、この「好き」という気持ちをどうにか形で表現してみたい。「現実」を「表現欲」で必死に抑えきって、どうにか書き上げた。不思議な物で、才能が無い事は分かっているのに、書き上げた後は「誰かに読んで欲しい」という自己顕示欲みたいな厄介な物がふつふつと湧き上がってくる。ツイッターにリンクを貼って投稿して、その日は就寝した。

翌日いつものように起きて携帯を立ち上げると、書き上げたnoteには今まで見たことの無い数の「いいね」が付いていた。普段なら5行けば「多いなー」と思うのが、20以上の「いいね」。普段から何十、何百といいねがつく人にとっては屁みないな数字だが、自分にとってはパニックになるほどの評価。ツイッターに張ったリンクにもRT・いいねが数十件も付いていた。何より、ナオユキ自身がこのnoteとツイートにリアクションしてくれて、自身のツイートにもわざわざリンクを貼って布教してくれていた。憧れの人の事を自己満足で書いた文が本人に届いて、読んでくれるだけでも恐縮なのに、不特定多数へと布教してくれるなんて。これ以上の幸せは無い。これからも自分のペースで、どんどん書きたい事を好きに書いていこう、残していこう。これが自分を表現する手段だ。そう心に決める出来事になった。

そんな事があってからの、初めてのライブである。(我ながら前置きが長い。長すぎる。)

ホールと使っての単独ライブに行くのは初めて。去年も札幌へ来てくれたが、自分はちょうど地元へ帰省していて行けなかったため、1年越しの再会となる。開場時間定刻になり、会場入りして、席に座って落ち着いていると、「チョクくん」と聞き慣れた声をかけられた。振り向くと、ナオユキさんが通路にいた。わざわざナオユキさんの方から声をかけてきてくれた。予想外すぎて、「あ!どうも!しばらくでした!」と月並みな返事を返す事で手一杯。心臓が止まるかと思った。

同じくファンであるお笑い好きの友人と開演ギリギリで合流して、M-1の予選や近頃のお笑いの近況を軽く談笑するうち、あの聞き慣れた気怠いアコーディオンの出囃子が聞こえてきた。

間に中入りを挟んで、40分の長尺漫談を2セット。つかみで日常のスケッチを軽く入れ、後はお決まりの、酒場と酔っ払い達のデタラメで愛が溢れるスケッチ。特に、大阪のディープサウス・西成の風景を語る件は、信じがたい光景のオンパレード。ある種の「ダークファンタジー」にも通じる。

以前聞いた時と比べ、人物名や店舗名など実際に存在する固有名詞がふんだんに盛り込まれていて、その一つ一つのエピソードとスケッチが、より生々しく、より色濃く心と肌に突き刺さってくる。やりたい放題の登場人物達を俯瞰から眺め、付いたり、離れたり、けなしたり、そして寄り添ったり。会場の空気と観客の笑い声に身を任せ、揺蕩うように唄うように、酒場を、酔っ払い達を語り紡いてゆく。さりげなくて、時に貪欲で。

相変わらず、ナオユキさんは優しい。この人は本当に人間が好きなんだ。


9月5日 9月11日 映画『バケモン』

言い得て妙。この芸人を言い表すのに、最も的確なタイトルだと思う。

テレビ番組の構成演出家である山根真吾が、2004年から17年間、落語家・笑福亭鶴瓶を追いかけ続けたドキュメンタリー映画。鶴瓶は自身の落語を一切ソフト化していない。常に記録しているスタッフは居るものの、「俺が死ぬまで世に出したらアカン。」と強く念押しをしている、というのを何らかの記事で読んだ記憶がある。その鶴瓶の落語を追いかけたドキュメンタリー映画が世に出るという。観に行かない理由が見当たらなかった。

カメラに映し出される、その常軌を逸した人間力と超人的なバイタリティには舌を巻かざるを得ない。あらゆる出会い、経験、考え方、人生哲学などをどんどん吸収し続け、現在進行形で笑福亭鶴瓶という芸人はさらに膨張し、さらに複雑になり続けている。こんな芸人を「バケモン」と言わずして、何と言う。

古典落語の傑作「らくだ」を主軸に、鶴瓶、「らくだ」を十八番とした鶴瓶の師匠・六代目笑福亭松鶴、さらには「らくだ」を完成させた伝説の奇才・桂文吾…様々な時代、人々、思いが無限に入り乱れ、交錯して、映画全体にブラックホールのような混沌が渦巻いてゆく。

度肝を抜いたのが、そのとんでもない量と質の取材素材。2007年の歌舞伎座で開催された大仕掛けを用いた「らくだ」の一部始終から、「らくだ」を初めてとした「青木先生」「ALWAYS~お母ちゃんの笑顔」「かんしゃく」「錦木検校」「徂徠豆腐」「山名屋浦里」といったキラ星の如き鶴瓶落語の数々のダイジェスト。「山名屋浦里」を掲げたツアーでの千秋楽、サプライズで原案を行ったタモリが舞台に花束を持って登壇、その模様と楽屋話まで、今まで本や記事でしか読んだ事がない出来事が映像で次々と目まぐるしく展開される。演芸ファンからしたら、ずっと欲しがっていたおもちゃしか入っていないおもちゃ箱を一気にひっくり返したような感覚。ワクワクが止まらない。

めちゃくちゃ笑って、めちゃくちゃワクワクして、めちゃくちゃ考えさせられて…持ち合わせている色々な感情が一度観ただけで整理する事ができず、翌週もう一度観に行く事にした。同じ映画を2度観に行くなんて、いつ振りだろう。それでも、分からない。でも、それが心地いい。

我々はどうして笑福亭鶴瓶という芸人に惹かれ、演芸ファンはどうしてあんな陰惨でグロテスクな「らくだ」という噺に未だに熱狂するのか。その答えがこの1時間59分59秒に凝縮されている。


9月12日 M-1グランプリ2021 札幌1回戦

気付けば、もうかれこれ3,4年は見に行っている。去年は初めて無観客での開催だったので、1年越しの生のM-1の空気である。

会場は、狸小路内にある映画館「サツゲキ」。友人と合流して、スムーズに席を確保して、開演を待つ。けたたましいBGMと共に、MCであるすずらんが登場。前説の脱線トークを挟みながら、諸注意や大まかな流れを説明してゆく。このワクワクが逆撫でされるような時間が堪らなく愛おしい。毎回この時間が「今、自分はM-1を見に来ているんだ」と実感させてくれる。

およそ3時間、計73組の漫才を休憩を挟まず、ノンストップで浴び続けた。1組の持ち時間が2分とはいえ、それが73組も続くと、ライブを見に来てるのか、罰ゲームを受けに来ているのか分からない。しかも、これだけの数の漫才が見られて、入場料は破格の500円。例年思うが、正気の沙汰じゃない。

芸のある組からセコな組まで73組が漫才を披露。人生をかけて洗練されたネタで勝負してくるプロ、思い出作りのため一生懸命に振り絞って考えてきたネタを披露するアマチュア、アマチュアながらもハイクオリティな芸を見せてくれる組もいれば、リズムが崩れきってて、聞くに堪えないどころか聞いてて怒りがこみ上がってくるような組まで本当にさまざま。

肌感覚だが、終始安定して会場を湧かしていたのは、つちふまズ、コロネケン、ゴールデンルーズ、スキンヘッドカメラといった札幌吉本の面々。「面白いなー」と思ったのは、兄貴と舎弟というやりつくされた漫才パターンからさらに新しい広がりを見せてくれた百餅。ハイテンションなボケと小気味よい掛け合いが印象的だったスクランブル。オーソドックスな漫才スタイルながら、音としての心地さが見事だった、やすと横沢さん。10回クイズをセンスよく遊びつくしたサーナイト。この辺りが素晴らしかった。

3時間近くの長丁場に会場が疲弊しきった中、大トリで出てきたのが「強盗と金魚」というアマチュア。覆面を被った一人の「強盗」の片手には、水が満たされたビニール袋。その中を悠々と「金魚」が一尾泳いでいる。ご丁寧に、金魚の入ったビニールにもしっかりとエントリーナンバーが書かれたシールが貼られている。失笑とザワザワが錯綜する舞台で淡々とネタを喋る「強盗」。我関せずでビニールの中を水を悠然と泳いでいる「金魚」。また「強盗」の喋りが軽妙で、面白い。まるでインフルエンザに罹った時に見る夢のような光景が、確かに眼前に広がっていた。前の72組の印象が、たった1組で全部吹き飛んだ。こういう多様性を認めてくれるのが、M-1の醍醐味。


以上、8月26日から9月12日まで見てきたライブ、映画について簡単にまとめてみた…つもりだったが、想像以上の長文になってしまった。これでもかなり端折ったつもりだったのだが。簡潔に伝えられる文章編集力が欲しい。誰か売ってくれ。

自分にできる感染対策を徹底して久しぶりに生の芸に触れたが、やっぱりライブはいい。ライブ配信というサービスが、このコロナ禍でものすごいスピードで浸透し、家でライブを愉しむ光景が当たり前となったが、あの「ハレ」の場ならではの緊張感と心の高揚は、やはり生の会場に赴かなければ味わえない。この数週間で、改めてライブの芸が持つ力の存在を思い知らされた。

見えない不安を癒してくれるのは、見えない力を持つ「芸」しかない。



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