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年末年始 思考アトランダム

本当に今更ながら、明けましておめでとうございます。本年もこうしてマイペースに駄文を上げ続けていく日々を送るので、もし読んでいただける物好きの方がいらっしゃれば、お付き合いを願います。

年が明けてすぐ。「noteを書きたい・文章を書きたい欲」がふつふつと湧き上がってきたものの、肝心のテーマが全く浮かんでこない日々が数日続いた。年末に滑り込みで「錦鯉」について書く事ができたので、今のところ「この芸人、芸について書いてみたい」という欲は落ち着いている。でも、「何かを書きたい」という欲は、日を追う毎に熱を帯びて、それはストレスへとゆっくり形を変えてゆく。どうしようかと思いあぐねた結果、1個の記事にするまでもない、かといってTwitterで発散するには文量が多い、最近の出来事や感じた事数件をまとめて1つの記事にしてみようという考えに至った。

30代、芸能好き、独り身男性が、年末年始に何の理由もなくふと考えた事や、出来事をアトランダムに記していく。


R-1グランプリ

年末のM-1グランプリの喧騒が冷めきる事なく、お笑いファンの目線はゆっくりと次の賞レースである「R-1グランプリ」へと移ってゆく。だが特に、今年度のR-1に対するお笑いファンの目線は、例年よりもさらに厳しく鋭い物を向けている割合が高いと思う。

去年の、散々で忸怩たる思いを抱かざるを得ない大会を見たからである。

何の前触れもなく、今年度の開会宣言と同時に発表された突然の芸歴10年以内という芸歴制限。内外からの紛糾が想像以上にあったと見え、突貫で備え付けたとしか思えない芸歴11年以上の芸人で準決勝経験者で構成されたイベントを開催するというブレブレの方針。無事決勝開催までこぎ着けたものの、他の賞レースの二番煎じのような構成を生放送2時間で収めようとするものだから、終始時間が巻いて肝心の審査員のコメントは殆ど聞けず。そして、1番ひどかったのが優勝者決定後、あれだけ時間が巻いていたはずなのに、時間が余ったのか優勝者のネタをもう一度フルの尺で流したのだ。

「暴挙」である。お笑い賞レースの根幹である「芸人ファースト」「お笑いファンファースト」を無視しているとしか思えない。長い事お笑いファンをやっているが、これほど怒りと失望を抱かせた大会は初めてだった。「この構成・運営で問題ないと判断した最高責任者は全責任をとって、腹を切れ」とまで思った。お笑いの賞レースでこんな感情を抱かさせられるとは。

だが、どれだけ運営に失望しても、あらゆる方面から反感を買っても、ピン芸人にとって、現時点で世間へと大きく開かれた頂は「R-1グランプリ」しかない。決勝にさえ残れば、どれだけ知名度の無い芸人でも、無条件で己の表現を電波で乗せて日本全国に届ける事ができる。たった3分のテレビ放送で1人の人間の人生が変わってしまう。芸人の人生を変える責任を背負うとは何たるかを、運営には今一度考えてもらいたい。

改善を、心から願っている。


○○になりたい

ふと思ったが、生まれて気付けば30数年経ったが、今まで「○○になりたい」と思った事がない。

「○○がしたい」という欲の類は勿論ある。「美味い酒が呑みたい」「綺麗な女性と付き合いたい」「この芸を生で見たい」といった人並みのありふれた欲求は常日頃から持ち合わせているが、「○○になりたい」といった自分の社会的な立場、だけでなく状況に対する欲求みたいな物は思い返してみても、持ち合わせた事が無い気がする。

「なりたい」という欲求は無いものの、生きていく上で必要最低限度の物は当然求める。例えば「金持ちになりたい」とは思わないけど、生きていける分の最低限度のお金は当然欲しい。現在非正規雇用の身であるが、生きていける最低限度の賃金は稼げてはいる。その範囲で生活は営めているので、これといった不自由は発生していない。故に、「金持ちになりたい」とは思わない。というより、思う必要が見いだせない。

立場についても、その立場に付属している価値ややりがいよりも、その立場になった際の自身への負荷の方に関心が寄る。要するに、疲れるのが嫌なのである。

根本をさらに掘ると、そもそも今までの人生で「これになりたい」と情熱を注げる物に出会った事がない。だから、大学卒業時の就活は本当にきつかった。本心で情熱を注ぎたい仕事が全く無いのに、集団心理に焦りを掻き立てられて、情熱なんて微塵もないくせに嘘八百でエントリーシートや履歴書を作りまくった。当然そこには本音が乗ってないから、少しでもツッコまれると、いとも簡単に瓦解する。そもそも根幹が嘘のつけない人間なので、あたかも本音で話している自分とこの状況に違和感と嫌悪感しかなかった。なりたくないけど、他になりたい物がないから、仕方なくなりたい物を探しているような状態。この新卒就活の期間は、間違いなく人生の生き地獄の期間だった。

紆余曲折あって、今の職場に出会えた、というか流れ着いたという表現に近いが、「自分に出来そうな範囲の仕事」という最低限度のこだわりだけを持って探して、辛うじて縁がつながった場所で、結果今までの人生で一番長く働かせてもらえている。思い返してみると、新卒就活からずっと無理矢理続けていた「○○になりたい」という考えを捨ててから、割とすぐに決まった気がする。

「○○になりたい」と思う事は大切だし、とても尊い事だとは思うが、時と場合によっては、思い切ってそこから離れてみるのもアリだと思う。想像もしなかった道や景色が、見えてくるかもしれない。


久しぶりの年末年始

今回の年末年始を思い返すと、色々と久しぶりな事があった。

1つは、どこにも出かけず1人で年越しの瞬間を迎えた事。例年は、贔屓にしていた特撮Barが毎年恒例で大晦日も営業してくれていたので、そこへ顔を出して、お手製の年越し蕎麦を手繰りながら、賑やかな空気の中新年を迎えていた。

しかし、その店は一昨年の12月31日をもって閉店したため、自ずと大人数で集まって年を越すという環境その物が無くなった。正確に言うと、系列店で例年通りに大晦日営業はやってはいたのだが、今年は天候が荒れていて、イベント終了後は毎回徒歩で帰っていた身として、今年は最悪野垂れ死ぬ可能性が否定できなかった。何よりその行きつけだった特撮Barが閉店して丸1年経った事に、ある種の節目を感じ、「久しぶりに部屋でゆったりと年を越してみよう」と思い立ち、果たして自分の部屋で新年を迎える事となった。数えてみたら、実に10年ぶりに1人で部屋で新年を迎えた。大人数で賑々しく新年を迎える事が例年当たり前だったので、1人ぽつねんと芋焼酎のロックを傾けながら、十数年ぶりに『ゆく年くる年』を見て新年を迎える時間が、とにかく新鮮だった。何より自分のタイミングで布団に入れるというメリットの凄さよ。

もう1つは、年末年始恒例の実家からの物資が無かった事。例年は実家からおせちの類やら酒肴などがアトランダムに詰め合わせて年末前に送られてきたが、今年は諸々の事情が複合的に重なり、送る事を断念する連絡を事前にもらっていた。毎年の習慣には有難さしかないが、実家の親も確実に年齢を重ね、子供の身としては余計な負担はなるだけ減らしてあげたいと以前から思っていた。

大晦日に外へ呑みに出る事が無くなったので、今年はその分の金は年末年始の食糧系に全部回す事にしようと思い、例年より若干豪勢な物をあれこれ食べる事ができた。

それにしても、おせち材料の値の高さに驚かされる。少人数用の短い伊達巻や、ちょっとの量しか入っていない栗きんとんや黒豆が4~500円が相場というは、やはり納得がいかない。

1人で生活を営んでみて、実家で何も考えずに毎年おせち料理が出てきていたのが、どれほど尊い環境だったのかを改めて実感した。


季節ごとに芸に楽しむ

正月も3ヶ日を過ぎた1月4日に、毎年恒例でやっている遊びのような事がある。

人気時代劇ドラマ『鬼平犯科帳』第4シリーズ第4話に、「正月四日の客」というエピソードがある。これを流しながら、辛味大根のすりおろしをそばつゆに溶かした盛り蕎麦を食らう。本編には、すりおろしたねずみ大根の汁を蕎麦つゆに入れて食べる「さなだ蕎麦」という料理が出てくるのだが、似通う料理を、物語を流しながら食べる事でその世界観を追体験しているような気分になるのが楽しいのである。もうかれこれ6,7年この遊びを続けている。

このように季節ごとに、その季節に合わせた芸を味わうのは一興である。ことに、自分は落語が好きだから、こうした遊びが季節に合わせて色々とできる。

芯まで冷えるような寒い日の夜には、あつあつの鍋焼きうどんを拵えて、BGMには八代目三笑亭可楽の「うどん屋」を流しながら食べる。趣もへったくれもない暴風雪のような夜は熱い酒と簡単な肴で、十代目金原亭馬生の「鰍沢」を聞く。春になれば、近所で桜が盛る場所あるので、そこへ行きワンカップなぞ片手に、イヤホンで「長屋の花見」やら「花見の仇討」「花見酒」などを愉しみ、うだるような夏の日にはきりっとした冷酒を傾けながら「青菜」や「夏の医者」、趣向を変えて「もう半分」など軽い怪談噺などもいい。8月15日の終戦記念日には必ず異才・川柳川柳の傑作「ガーコン」を聞く。そして、秋には「目黒の秋刀魚」を聞きながら、焼き立ての秋刀魚でちびりちびりと、のように四季の移ろいに応じた楽しみ方が落語にはある。

落語だけに留まらず、その季節に合った映画、劇作を見るのも趣がある。12月25日のクリスマスには毎年近所のレンタルショップで「戦場のメリークリスマス」をレンタルしてくるのが毎年のルーティンとなっている。何遍も見て聞いているのにビートたけしの「「メリークリスマス。メリークリスマス、ミスター・ロレンス」とクリスマスならではの荘厳な空気感がマッチして、心に余韻を残す。

欲を言うと、自分は漫才やコントが大好きなのだが、こうしたカテゴリーには季節感を感じさせてくれるような作品を見かける事が少ない。いや、おそらくきっと自分が気づいていないだけで、あるにはあるのだろう。古くは、いとし・こいしさんの「物売り・季節感」の漫才があったが、その程度くらいしか知らない。いつの時候も関係ない「普遍性」が、こうした芸の売りのような所だとも思うが、たまに時候を愛でるような趣のある漫才やコントにも出会ってみたい。

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