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自然を生きると言う事

巨大な入道雲が透明なカンバスの大半を占有する。
木枠に縁どられた我が家のリビングの一角は、天へ昇る黒々とした影の為にやや暗転した。

遠景の山々に、夕立が来たのだ。

それが緩やかにこちらへ向かってやって来る。
山の天気は変わりやすい。

そろそろだぞ、と思う間に、雲はやがて流れて行った。

目の錯覚だった。

余り巨大に発達し過ぎて、僕の視覚に錯誤を起こしたのだ。

大して涼しくもない夕方、久方ぶりの兄弟からの電話があった。
彼らの忙しない生活、都会的で現代的な華のある営み。

一見すると羨ましいように響く言葉の端々に、彼らの絶え間ない懊悩を聞く。
その切実さは、僕も助けようがない。

言葉少なに電話を切ると、この社会に生きる事の憂鬱が乗り移った。

フロントガーデンへ出て作物に触れながら、本来の人間のあるべき姿とはどのようなものであろう、と誰にともなく問うた。
否、あるべき姿などあるまい、それはきっと人それぞれで異なるのだから。

そして次の瞬間にはその思考さえ失念している。

夕方のひぐらしはまた、僕の脳味噌を空っぽにするのだ。
眼前の緑へ水を遣る姿は呆然とし、唯体の動くままに動いているだけである。
動くままに動いている、この表現は正にしっくりくる、その状態が、僕の高ぶった精神を鎮静化させる唯一の手段だった。

自然は時に冷酷だ。
人間の食料として育てられる作物の為には、その命を落とすべき生き物も存在する。
それは僕の手によって捕えられ処分される。
その時の僕は笑っていない、青ざめてもいない、唯、無表情である。

そして、ここに書き述べた事は全部嘘だ。

冷酷なのは人間である僕。
生き物の中に落とすべき命を持つものはない。
僕によって捕えられた生き物は、怯え震える僕の手で溺死させられるのだ。
だから、無表情は偽りである。

無農薬無肥料の我が畑では、この残酷な風景が日々繰り返される、殊夏の間は。
溺死した生き物を地面へ置いておくと、次の日にはもうその遺骸は何処にも見えない。
唯、何時も通りの風が草の間を吹き過ぎるだけである。
僕はそして、沈痛な面持ちを地面へ向ける。

これが、自然、自然を生きる、と言う事。

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