見出し画像

ズッキーニとディダクション

ある日の午後、フロントガーデンで水遣りしていた僕は、
向かいの家から大家のミセススフィアが出て来るのを見た。

彼女は慌ただしく車に乗り込み、大きくアクセルを踏み込むと、
猛スピードで出て行った。

今日もまた仕事に遅れそうなのだな、と思い僕はにやにやする。

彼女は、山を下りた先の町でカフェ店員をしている。

白壁の美しいモダンな雰囲気の店内。

フルーツたっぷりのパンケーキが売りの、居心地の良い店である。

そこへ彼女は週に四日、午後一時から五時まで働く。

店のオーナーは彼女の旧友で、五年前、
店を開く時に手伝って欲しいと言われたのがきっかけで店員を始めた。

以来一日と休む事無く続けているものの、彼女の行動は何時もギリギリで、
彼女が慌てて車に乗り込む姿はこの近隣の風物詩となっているくらいだ。

最も、そう認識しているのは僕くらいなものかも知れないが。

ところで、今日は平生と幾分様子が違った。

僕がこの猛暑の日々に、
太陽の一番高い位置にある時刻に水を遣るはずがない。

最後に時計を確認した時は午後五時過ぎだった。

この時間から彼女が外出とは、
ひょっとしたら仕事では無いのかも知れない。

しかし、慌てて出て行く姿は平生通り、
服装も仕事用のカジュアルなシャツとパンツ。

彼女は普段着にワンピースを着るタイプの女性である。

職場へ向かっているのは大方間違いない。

ウリハムシにやられ穴だらけのズッキーニを撫でながら、
僕は淡々と思索に耽った。

そもそも急ぐと言っても、今日の彼女の形相は只事では無かった。

葉に乗ったウリハムシをデコピンで弾き落とす。

仕事着に、何時も持ち歩くクラッチバッグ。

そう言えば、平生と異なり一段と大事そうに抱えていたっけ。

車は一昔前の赤いセダン。

二日前に車検から帰って来たばかりだ。

その車屋からまだ正式の領収書を貰っていないと、
ミセススフィアは苛立ちを顕わにした。

それが昨晩。

職場より帰宅後、山小屋で暫し団欒したのだ。

ズッキーニの花がぽろりと落ちた。

とうとう受粉せず雄花が枯れたのだ。

「今年はズッキーニ駄目か・・・。」

そう呟くと、僕は不図今朝方の出来事を朧げに想起した。

「そう言えば、彼女は早朝から山小屋でガタガタしていたような。」

そう言うや否や赤のセダンが戻って来る。

ミセススフィアは安堵の表情でクラッチバッグを抱えていた。

「あ・・・、携帯だ!」

携帯を失くした為に、彼女は車屋と連絡が取れずにいたのだ。

何と単純明快でどうでも良い推理であろう。

落ちたズッキーニの花を見て、僕は泣きそうな気分だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?