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山小屋の休日

僕は割と『予感』を大切にしている。

鈍感で未来予測の苦手な僕が生み出した生きる術だ。

『予感』は『予測』よりも時間がかかる、物事の顛末の。

どちらも何か起こる前の予防策となるが、
『予測』ではより現実的な思考が瞬発的に必要となる気がする。

つまり僕の苦手分野。

一方の『予感』では幾度と無くその兆候が現れて来て徐々に気が付く。

それを兆候と捉えられるかどうか、それだけの話である。

より感覚的、とも言える。

ここまで長々と語って来たのは、
どうも最近の僕は『予感』に嫌われている気がするからである。

否、僕の感性が鈍って来ているのかも知れない。

明らかに以前より言葉も降りなくなっている
(あ、これはこちらの話だ、お気になさらず)。

思考する事より想像する事の方が億劫で、
物語より実用本を好むようになった。

可愛らしさより整然とした美しさに惹かれ、
自然より人工物に興味を持つようになった。

いや、そこまでは行かない。

兎も角、僕はありとあらゆるものを
予兆と結び付けて考えるようになったのだ。

その結果、『予感』の精度は低下し、起こりもしない事に恐怖する日々。

例えば、祖父の形見の皿の上へ大きなボウルを乗せてしまった時、
僕は何か大切なものを失う『予感』がしたが、
一週間経とうと結局何の事件も起こらなかった。

それどころか何も無さ過ぎた。

退屈で死にかけた。

またある時は、毎日のように黄色い蝶に出会い吉兆の印と考えたが、
全て幻想に過ぎなかった。

そのくせ鳥がやけに騒いでいたりなどすると、
幾ら天気でも今日は雷雨になりそうだぞと思って洗濯物をしまうと
本当に雨が降るのだから不思議だ。

本当に精度が一貫しない。

寧ろ感度が高すぎて、
物凄く先の未来まで『予感』しているのかも知れない。

ここ数日はまた雨続きのどんよりとした天気である。

否、どんよりとするのは僕の心の天気か。

ざあざあ降りの雨も屋根の下で見ている分には面白いものがある。

外へ出られないのは鬱憤の溜まる気もするが、
雨樋から滝のように水の落ちて来るのは興奮するし、
その上雷でも鳴り始めたら祭りの始まりかと思い紛う。

何が言いたいのかと言うと、
畑の無い山小屋での生活は基本暇なのである。

『予測』が、とか、『予感』が、などと言う戯言を並べ立てて来たが、
要するに様々な出来事を(些末の事でも)妄想で膨らまして遊ぶのが、
最近の唯一の遊戯なのである。

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