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問題を認識できなければ常に後手に回る

20世紀の後半から21世紀の初頭にかけて高く評価されてきた、

 従順で
 論理的で
 勤勉で
 責任感の強い

いわゆる「優秀な人材」は、今もまだ優秀と言われている傾向が強いと思いますが、今後「オールドタイプ」として急速に価値を失っていくことになるでしょう。いえ、厳密には

 それだけ

ではオールドタイプになっていく…と言ったほうがいいでしょう。これらの4大要素はそれなりに大事なポイントではあります。しかし、

 「ただ従順であればいいのか?」
 「論理的でありさえすれば他は無視していいのか?」
 「勤勉でありさえすれば成果が伴わなくていいのか?」

などという疑問が出るような振る舞いをする人もたまに見かけますよね。責任感については強ければ強いほど、責任というものを理解していればしているほどいいのですが、これも「自分は何もしないくせに、他人にばかり責任を説く」ようでは困ります。

20世紀の後半から21世紀の前半まで50年ほどのあいだ「望ましい」とされてきた思考・行動様式の多くは、今日急速に時代遅れのものになりつつあります。実際、旧態依然としている企業の多くは赤字・黒字に関係なく、廃業を迫られているケースもあります。

一方、このようなオールドタイプに対置される、

 自由で
 直感的で
 わがままで
 好奇心の強い人材

イコール「ニュータイプ」が今後は大きな価値を生み出し、評価され、本質的な意味での「豊かな人生」を送ることになる…とも言われています。こうした要素はそれ単体で見るととても集団活動に向いていないように見受けられるかもしれません。「組織の中で本当にやっていけるのか?」と思われるでしょう。しかし近年ビジネスモデルが変化してきたことで、こうしたニュータイプの要素が強調される人も台頭してきているようです。

このようなオールドタイプの思考・行動様式は、これまで長いこと一般的に「資本主義社会で成功する優秀な人物」と考えられてきた人材の要件です。

しかし、今まさに激しい変化の只中にある社会の構造やテクノロジーを踏まえれば、これらの思考・行動様式は最新の社会ニーズにマッチするようアップデートされなければなりません。

ちなみに私は、「オールドタイプ6:ニュータイプ8」と言う結果でした。

厳密にはニュータイプのように考えてはいても、「郷に入りては郷に従え」によって表向きオールドタイプのように振舞い、裏でこっそりニュータイプのような準備を入念にしておいていつ問題や課題が起きてもいいように臨機応変な対応ができる自分を作ります。

どっちの選択肢も完全に捨てきらない…と言う意味では、中途半端な存在なのかもしれませんが、そもそも「AよりB」「A or B」という凝り固まった考え方をあまりせず、様々な要素を適材適所したり、両立させたりする柔軟性をもつようにしています。

必要なのは「問題を発見」できる人

1つ目のポイントは、オールドタイプの思考・行動様式が「社会への価値の創出」という観点からすでに有効ではなくなりつつあるということです。

これまでオールドタイプの多くが依拠していた「論理とサイエンス」…すなわちハードスキルが、「モノが過剰になり、正解がコモディティ化していく」世界において有効性を失いつつあります。

これはまさに「価値創出」の源泉が「問題を解決し、モノを作り出す能力」から、「問題を発見し、意味を創出する能力」へとシフトしていることの現れです。

たとえば、先日公開した記事のような考え方ができる経営者や上司というのは決して多くはないでしょう。実際、こうして記事にするくらい私の周りには理解者や体現者が存在しませんでした。それくらい「問題」や「課題」を探し、向き合う人が周囲を多く取り囲んでいるということがよくわかります。

90年代後半から、多くの『標準化』や『フレームワーク化』『マニュアル化』が行われてきました。私自身もそうしたオールドタイプの人たちの一助となるよう、多くの標準化やマニュアル化を行ってもきました。しかし結局のところ、そういった標準やマニュアルが無いと何一つ動けない人たちあるいは標準やマニュアルを嫌って勝手に活動して問題を起こす人たちは、この先の社会で重要な地位を占めることは難しくなってきています。

どのような時代にあっても「望ましい」とされる人材の要件は、その時代に特有の社会システムやテクノロジーの要請によって規定されることになります。これはつまり、世の中の要請に対して相対的に希少な能力や資質は「優秀さ」として高く評価され、逆に過剰な資質や能力は「凡庸さ」として叩き売られる、ということです。

したがって、世の中に「モノ」があふれかえり過剰となっていく一方で、「問題」が希少になっている現在の社会において求められる人材要件が、その真逆である「モノ」が希少で「問題」が過剰であったかつての社会において求められる人材要件と大きく異なるのは当たり前のことなのです。

しかし、人間のマインドは基本的に変化を嫌い、とてつもなく保守的なので、多くの人はあいも変わらず偏差値に代表される「正解を出す能力」を、その人の「優秀さ」を示すモノサシだと信じていまだに崇め続けているのが実状です。

この認識のネジレが、社会のさまざまな局面で悲劇と混乱を巻き起こしています。

私の周りにも、昔から「答え」だけ聞きに来る人が多く、「なぜそうなのか」を説明しようとすると疎ましがられることが多かった気がします。その場を解決できる答えだけが知りたくて、それ以外を理解しようとしないからいつまで経っても成長がありません。


現代の問題を拡大再生産していないか

次に、オールドタイプからニュータイプへのアップデート、あるいはオールドタイプを理解しつつもニュータイプの要素を取り込んでいくことが必要だとする理由として、

 これまで活躍していた人材=オールドタイプ

が発揮してきた思考・行動様式によって資本主義というシステムが生み出す問題そのものが拡大再生産されているという点です。

たとえば現在、世界中の都市で大量に生み出されている「ゴミ」は深刻な問題になりつつありますが、これは「生産量的な向上」を無条件に是とするオールドタイプの思考・行動様式の結果ともいえます。

要するに

 「量的に豊かになれば、幸せになれる」

と盲目的に信じ、過剰生産となって、大量のゴミが出たとしても

 「世の中が豊かな証拠なんだから、何が問題なんだ」
 「売れたら売れた分だけ儲けるんだから、ゴミなんて知ったことか」

と言い放つ、旧時代的な考え方に則ったものであると言うことです。

実際には、原資を別の用途に転用し、ゴミを生み出さなければもっと効率的に世の中が回っていたかもしれないにもかかわらず、自己正当化のために問題を問題として取り扱わないことが起きてしまうのです。

確かに、かつてのようにモノが不足している状況であれば、ひたすらに「量的な向上」を目指すというオールドタイプの行動様式は時代のニーズとマッチングしていたかもしれません。

しかし、現在のようにモノが過剰に溢れている状態で、ひたすらに「量的な向上」を目指せば、すでに過剰にあるモノを次々にゴミにしていくしかありません。

こういった問題の原因を「資本主義というシステム」に求めて、これを何か別のシステムに切り替えることで解決しようということが以前は考えられました。1960年代に世界中で盛り上がりを見せた学生運動はその一つの例と言えますが、結局のところこれらの取り組みは壮大な実験の結果、うまくいかないことが明らかになっています。

つまり、今の私たちを取り巻いている「システム(仕組み)の大きな問題」を解決するにはシステムそのものをリプレースするのではなく、システムそのものを微修正しながらその中に組み込まれる人間の思考・行動様式を大きく切り替えることが必要だということです。

少しイメージしにくいかもしれないので、具体的な例を一つ挙げてみましょう。

たとえば、20世紀の半ばから後半の時期にかけては「問題解決」の能力が極めて高く評価されてきました。この時期は市場に多くの「不満、不便、不安」という問題を解消したいというニーズが存在していたので、それらのニーズを解消できる組織や個人は高く評価され、高い報酬を得ることができたわけです。

しかし一旦、物質的なニーズや不満があらかた解消されてしまった状態、つまり21世紀初頭の現在のような状況になってしまった場合、問題を解決する能力がいくらあったとしても、そもそも「大きな問題」が提示されていなければその問題解決能力が富を創出することはありません。

人類は原始時代以来、20世紀の後半までずっと「問題が過剰で解決策が希少」という時代を生きてきました。そのため、公的学校制度をはじめとした人材育成の基本的な目的は「問題解決能力の向上」に置かれています。

ところが、私たちは人類史の中で初めて「問題が希少で解決策が過剰」という時代に突入しつつあります。

既に、オールドタイプ自体も飽和しつつあるがために、AIが取って代わろうとしている時代背景もあります。AIで代用できる人材すら過剰供給されているとみなされ、淘汰されかねない時代となってきました。

このような時代にあっては、ただ単に「問題解決の能力が高い」というだけでは価値を生み出せません。ビジネスは常に「問題の発見」と「問題の解決」が組み合わされることで成立します。かと言ってマッチポンプ(自作自演)のようなことをしても意味はありません。

しかし、現在は「問題」そのものが希少になっている、あるいは問題を問題と思わない人が増殖しているわけです。

当然、私自身もトラブルプロジェクトがなければそれらを解決する能力はまったく意味を為しません。しかし、そうした数多くの経験のおかげで「問題」を発見する能力にも目覚め、

 そもそもどうやったらトラブルが起きやすくなるのか?
 トラブルを起こさなくするにはどうすればいいのか?

が考えられるようになりましたし、すべてとは言わないまでも過去の経験や体験からトラブルの起きやすいポイントを特定し、数多くの「問題を起こさせない」視点を見分け、見つけ、対処できるようになりました。

ただ問題が現れれば解決する…というのではなく、問題を予測し、特定し、あらかじめ手を打つことでそもそも解決しなくてもいい状況を生み出す考え方へとシフトしていったのです。

「問題解決」能力自体は今後も必要な能力です。
問題がゼロになることはありません。

かといって「問題を発見」する意識と能力が無ければ、問題を解決する機会も得られません。ボトルネックは問題の「解決能力」ではなく「発見能力」を起点としているため、結果としていくら優秀であっても問題解決者の価値が低減していくことになります。

一方で、問題発見者の価値が上昇することになっていくことになります。これが「好ましい思考・行動様式は、テクノロジーや社会構造という文脈によって相対的に決まる」ということです。

私自身も、そういう時代に生きてきたせいか「問題解決」「課題解決」の能力は同業界において人一倍高い自負があります。社会人人生の7割近くをトラブルプロジェクトの解決に費やしてきましたからね。なかなかこれだけの長い期間を開発プロジェクトではなくトラブルプロジェクトの解決にばかり従事してきた人って存在していないのではないでしょうか。

同時に、世の中のあらゆるものを(自身すら)信用せず、まずは否定するところから始め、否定が成立するか検証を繰り返して客観的な事実を元に慎重に取り込んでいく…ことばかりしてきたためか、「問題発見」「問題提起」能力もそれなりにあると思っています。

しかし、まだまだオールドタイプの多い今の時代、自分たちの取組みや結果を「問題」として否定されることを良しとする人は少ないでしょう。多くの人は「自己肯定」したくて仕方がないはずです。

私が「あなたのそれは問題ですよ」と言ったとして、仮にそれが本当に問題であったとしてもすんなり受け入れる人は世の中で100人に1人もいないでしょう。

先にも言ったように、人間とは非常に保守的な生き物です。

大問題にぶつかって、否応なく改善しなければならない状態に身を置かない限り、基本的に自ら常に変化し、改善し続けようとしないのが多くの人にとって人情と言うものです。

変えない努力、変えない言い訳探しには躍起になっても、変える努力、変える理由探しに邁進できる人、さらには自ら変えようと動ける人は本当に少ないのです。
(まぁ、少ないからこそ希少価値が高騰するわけですが)

とは言え、書籍化されて、世の中に警鐘されていて、しかもそれが人気書籍となっているくらいなので、いずれオールドタイプが淘汰されるような時代が来るのかもしれないと言うことは、頭の片隅に入れておいてもいいのかもしれません。

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