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成果中心の精神とそれを体現するプロセスの重要性

 「組織の良否は、そこに成果中心の精神があるかどうかによって決まる」

「もしドラ」で有名になった、P.F.ドラッカーの著書「マネジメント」でも書かれている名言ですね。具体的にはこんな感じ。

組織の目的は、凡人をして非凡なことを行わせることにある。天才に頼ることはできない。天才はまれである。あてにできない。凡人から強みを引き出し、他の者の助けとすることができるか否かが、組織の良否を決定する。
同時に、組織の役目は人の弱みを無意味にすることである。要するに、組織の良否は、そこに成果中心の精神があるかどうかによって決まる。

これ、すっごく大事です。ソフトウェア品質を担うQAの立場からも、プロジェクトマネジメントに責任を持つマネージャーの立場からも、心底大事だと思います。

そもそも、人間という生き物は多様です。一人として自分と同じということはありませんし、しかも様々なことに優劣があって、デコボコした存在です。あることを得意とし、あることは不得意としています。

プロジェクトチームを構築した時に、マネージャーにとって都合のいい人間だけがそろっていると言うこともないし、同じチーム内にいるエンジニアだって誰一人としてまったく同じスキルレベルの人がいるわけでもありません。ベテランもいれば、新人だっていることがあるでしょう。そうした多様性を抱える覚悟が無くては、企業で働くことなんてできはしません。

だから、マネージャー職以上の存在(もちろん経営層も含む)には、必ずと言っていいほど、このデコボコをコントロールできる能力が必要になってくるのです。もしも、

 「アイツはできてるのに、なんでお前はできないんだ!」

なんて上司がいたら、まずはその上司を疑ってください。部下の能力にデコボコが存在することが当たり前であるにもかかわらず、そのデコボコを均す努力をどれだけやってきたか?を確認しましょう。別にその上司が全てをする必要はありません(ゼロでもダメですが)。時には誰かに指示してもいいと思います。ですが、何一つ均す努力をしてこなかった上司には、デコボコであることを咎める資格はありません。

けれども、人にとっては

 「苦手なものをわざわざ伸ばそうとしなくても、
  得意な部分に焦点をあてて、適材適所した方が良いんじゃないの?」

と思う人もいるでしょう。ドラッカーも、

強みのみが成果を生む。弱みはたかだか頭痛を生むくらいのものである。
しかも弱みをなくしたからといって何も生まれはしない。
強みを生かすことにエネルギーを費やさなくてはならない。

と言っています。もちろん、基礎的な部分は得意/不得意に関係なく、身につける必要はあるのですが、そこから先は得意な部分に焦点を当てていくべきです。

実際、得意なことを伸ばすのは、不得意なことを直すよりもはるかに簡単なはずです。同じコスト・労力をかけて伸び率が低い方をわざわざ選ぶ必要性もないかもしれません。だからこそ、個人の努力と対になって、組織における適材適所は非常に重要な観点となってくるのです。

組織の中に、何事も成果を中心として考え、行動するという成果中心の精神が根付いていさえすれば、社員の、部下の、メンバーの得意なことだけを組み合わせるという手段を簡単に行えるはずです。

成果中心を実現するための方法は、何も難しいことではありません。

 • 第1に、あらゆることの焦点を成果に合わせること。
 • 第2に、あらゆることの焦点を機会に合わせること。
 • 第3に、人事は真摯さを絶対の条件として行うこと。

少なくとも、ドラッカーはそう言っています。そのうえで、

成果中心の精神を高く維持するには、配置、昇給、昇進、降級、解雇など人事に関わる意思決定こそ、最大の管理手段であることを認識する必要がある。
それらの決定は、人間行動に対して数字や報告よりもはるかに影響を与える。組織の中の人間に対して、マネジメントが本当に欲し、重視し、報いようとしているものが何であるかを知らせる

とも言っていますが、これはただの成果中心主義ではないことを意味している点に注意してください。欧米の成果中心主義は、「成果」を軸にしつつ、その成果を最大値化するために重要なものを『仕組み』に求めます。仕組みと適材適所が成果を呼び込むのです。

日本はこれをはき違えてしまって、成果中心と言いながら、ただの「ノルマ」を軸にしてしまい、とにかく個々人が勝手に努力して、成果さえ上げれば何をしてもかまわない…という風潮を作りがちです。個人の努力や勝手なふるまいで成果をあげても、それは組織の強さにはなりません。だから、優秀な人材が抜けた瞬間、その組織はガタガタになってしまいます。

本当の意味で「成果中心」を口にしたいのであれば、「成果」をゴールに見据えつつ、その成果を上げるまでのプロセスをしっかりと検討することです。

「成果中心」「結果が全て」と口にしていながら、「プロセス」や「仕組み」に言及できない人というのは、要するに組織を正しくコントロールできない人ということです。個人手はどんなに優れていても、上司や経営者には向かないと言うことです。そして、時に「チーム活動」そのものにおいても実力は発揮できない可能性があると言うことです。

以前も言ったかもしれませんが、私は「結果を出すことは、スタートラインに立つこと」だと思っています。結果を出さなくていいビジネスなんてものは存在しませんよね。

 「頑張ったんで、(成果は何もないけど)報酬ください」

そんな契約あったら見てみたいです。いやまぁ、派遣とか…ある意味そうなんですけど、本当に成果ゼロなら、契機満了する前に解雇/契約破棄されてると思います。

だから、イマイチ「結果が全て」という考え方に同意できません。

「え、結果なんて出すのが当然でしょ?」と思ってしまうからです。むしろそこがスタートラインであって、重要なのは

 どのようにして結果を出すか?

という点にあると思っています。つまり、"成果中心のプロセス思考"です。特に私が重要視しているのは

 ・すべてにおいて言語化できるプロセスであること
 ・再現性が高いプロセスであること(例外は除く)

です。前者は、言語表現できると言うことは、言い換えれば「(努力すれば)誰でもできる」ということです。組織の中で働くと言うのであれば、個人主義ではダメです。少なくとも金銭で評価してあげることはできても、出世させてあげることはできません。なぜなら、上司の立場に立っても、部下を指導・育成できなければ、組織全体の能力は向上しないからです。

たとえば、10人の部下を持つ上司になったとしましょう。

もしも、あなた1人で10人の部下を養えるだけの成果を出せるのであれば、上司の役割をはたしていなくても許してもらえるかもしれません。ですが、3人分の成果を上げていても、10人の部下がついてこれず、0.3人分の仕事しかできていなかったら、

 3 + (10 × 0.3) = 6.0人分

の成果しかあがりません。これでは個人としては優れていても、上司として失格です。個人プレーに走って成果をあげるだけの人というのは、中途半端に野心が強い分、そういう意味で非常に扱いずらいと言う特徴があります。

組織論に立ってみた場合、「成果中心」と「プロセス思考」が必ず対になっていなければならないと言うのは、こう言うところから来ています。

現実問題として、サッカー、野球、バスケットボール、バレーボール、etc.…といったチームスポーツにおいて、「強豪」と呼ばれる学校や組織というのは、ほとんどの場合において、この「成果中心」と「プロセス思考」を両立させています。だから、両立できている間(大抵はプロセスを構築した監督等が継続している間)、ある時だけのまぐれではなく、毎年、毎回、強豪となっているはずです。

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