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「和を以て貴しと為す」の誤用

一般的に、日本企業の風土のなかではなかなか本気で議論することができません。メディアの中で政治家同士や評論家たちが稀に舌戦するくらいで、企業内で対等に議論をするようなシーンってまず見たことが無いですね。

見たことありますか?

白熱する議論。
時間も忘れて本気でなんとかしようとする人たちの気持ちのぶつかり合い。

格闘技の世界ならいざ知らず、ビジネスの世界では必ずと言っていいほど誰かが止めようとします。どんなに本気で、どんなに内容を高め合うためのものであっても、白熱する議論になった瞬間止めようとする人が出てきます。

ですが、これは和を重んじているのではなく、ただただ「事なかれ主義」に陥っているだけです。

本当に組織の和と言うものを重んじるのであれば、議論すべき課題があれば徹底し尽くして、双方納得ができ、満足できる組織づくりを目指すはずです。これと言った理由もなく「議論をさせない」と言うのは、一方にフラストレーションを強要する行為だと言うことに気付いていないのです。

卑しい言い回しで否定してきた相手に対して、根拠の伴う反論をしようとしたら止められた…なんてほぼ毎年数回起きていますよ、私。その都度、不完全燃焼でかなりイライラしているかもしれません。

日本生まれなのに、今の日本風土では最も縁遠い

しかし、日系企業の多くは議論の場を与えられていないという問題よりも、なにより議論するムードが醸成されていないことに危機感を感じます。

 議論は「対事型」(What)でなければならない

と一般的に言われていますが、にも拘らず実際には根拠もロクに持たず、個人的な思いを吐き出すだけの場になっていたり、とにかくマウントを取りたいだけでいかなる議論であっても「No」と言いたいだけの陳腐な場になってしまったり、『誰(Who)』を主眼とした「対人型」に転じた論点でそれは既に議論と言うには稚拙で情けない姿となっていたり、時には対立が生まれ人間関係に亀裂が入ったり、兎にも角にもレベルの低い場にして場を乱してしまう人がいるわけです。

と言うか、建設的な意見を出し合えず自分の気に入らないことを否定するだけの人なんて議論の場にいて意味があるのでしょうか。誰よりも「和」とはかけ離れたところにいるようにしか思えません。

残念なことに、形だけの「和を以て貴しと為す」を基調とする日本型の共同体では人間同士の意見対立が「和」を壊す元となっている…と安直に考えてしまうが故に、建設的であるべき本当の意味での『議論』が忌避されてきました。


真の「和を以て貴しと為す」

聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条に出てくる言葉ですが、一般的に「皆で仲良くやろう」と訳す人が多いと言います。ただただ仲良しごっこを続けましょうと。

しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

多くの人が自分勝手に意訳するのは結構ですが、その本質を調べているのでしょうか。ちょっとググればわかるようなことさえも、ちゃんと調べもせずになんとなく濫用していないでしょうか。

聖徳太子が10人の話を同時に聞いていたかどうかはともかく(真実ではなかったようですが)、日本初の憲法を制定したような偉人がわざわざただの「仲良しごっこをしましょう」などと第一条に書くでしょうか?

少し考えてみれば、疑念を抱きますよね。

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ちょっと調べてみると、すぐに出てきました。
十七条憲法の第一条にて、

「一に曰く、和をもって貴しとし、忤(さから)うことなきを宗とせよ。
 人みな党あり。また達れる者少なし。
 ここをもって、あるいは君父にしたが順わず。また隣里に違う。
 しかれども、上和らぎ、下睦びて、事を、論うに諧うときは、
 事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

これはきちんと訳すと、

(第一条
 おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、
 むやみに反抗することのないようにせよ。
 それが人としての根本的態度でなければならぬ。
 ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通せる人は少ない。
 だから主君や父に従わず、周囲の人びとと争いを起こすようになる。
 しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるなら、
 大抵のことは道理に適い、何ごとも成しとげられないことはない。)

という意味になっています。
ハイ、ココ!!

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コレです、コレ。
まず第一条の時点で「協力する精神」を持たんかい!って言っています。最初から、ロクな根拠も持たずに「No」を言い続けるだけの人なんて、もうこの時点でアウトです。

同時に、第十七条では、

「十七に曰く、夫れ事は独り断ず可からず、
 必ず衆と与ともに宜しく論ずべし。
 少事は是れ軽し、必ずしも衆とす可からず、
 唯だ大事を論ずるに逮およんでは、若もしくは失有らんことを疑ふ。
 故に衆と与ともに相ひ弁ず。辞じ則ち理を得ん」

とも言っています。こちらは

(第十七条
 国家の大事は独断することなく、必ず皆で合議しなさい
 些細な事は重要度が低いため、必ずしも合議する必要はない。
 けれど大事を論ずるに至っては、少しでも過失があることを恐れなさい。
 ゆえに、皆で十分に論議を尽くしなさい
 そうすれば、その結論は必ず道理に通じたものになるだろう)

という意味です。企業の場合、国ではなく「会社」と置き替えると良いでしょう。

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この第十七条は、第一条「和を以て貴しと為す」の補完として読むべきです。すると、「和を以て貴しと為す」とは、決して単純に「皆で仲良くやろう」「仲良しごっこをしなさい」を意味するものではないことが分かります。

議論を排除し、馴れ合った仲良しを演じようというのではなく、むしろ互いにとって納得いくまで、納得して協力し合えるよう、必要なことであれば徹底的に議論しろといっているのです。


十分に意見を出し合い、最良の形にできているか

では、「十分に議論を尽くす」とはどのような状態を指すのでしょうか。

ここでは、第十七条の最後の一言「さすれば、その結論は必ず道理に通ずるであろう」がその説明になってきます。第一条の「事理おのずから通ず」もまったく同じです。つまり、「道理に通ずる」ところまで議論するということが"目的"となるのです。

「道理に通ずる」あるいは「道理にかなう」とは、人の行いや物事の道筋が正しく論理的であることを意味します。すなわち、納得のできる根拠が明文化できる状態であると言っているのです。

そもそも、「十分に議論を尽くす」必要性って何でしょう?

私は、

物事の価値観にはいろんな側面があるので、それぞれの価値観や考え方の「いいとこ取り」をすれば、誰にとっても良い結果になるはずだから、とにかく全部出し切りなさい

ってことだと思っています。「Aさんの意見の一部と、Bさんの意見の一部、それからCさんの意見とDさんの意見も採用したいね」なんて感じで、折衷案…と言うよりは、私の考え方のベースにある「いいとこ取り」ができれば、たった1人が考えた意見よりも、もっとより良いものになるはずだろう…ってことだと思うんです。


これを見ると、聖徳太子はその時代にすでに「合理的、かつ論理的な議論」の重要性を認め、議論することを呼び掛けていたことが分かります。けして、事なかれ主義に陥って、仲良しごっこをすればいいと言っているわけではありません。

このことに思いを馳せず、「和を以て貴しと為す」をただの仲良しごっこだと思っているのだとしたら、その組織はおそらく「和」とはかけ離れたただの馴れ合い組織になっているのではないでしょうか。

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