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「表面的な原因を取り除くことを対策とする」という人

は、おそらく原因を深く掘り下げて考えることが苦手な人です。

たとえば、「料理が塩辛かった」という問題に対して、「塩を入れすぎた」
という原因をあげたとしましょう。そしてその対策として「塩の量を適切にします」と答えたとします。

…どうですか?

「料理が塩辛かった」んです。
ここまでは事実情報ですね。

塩辛かったんですから、「塩を入れすぎた」からだという原因分析もあながち間違ってはいないのでしょう。だから、「塩の量を加減すればいい」と判断するのは、みなさんなら大本の『料理が塩辛過ぎた』問題に対する原因分析とその対策として正しい判断だと思いますか?




ですが、残念。
これでは問題の根本解決にはなりません。

実際に、みなさんも「塩の量を適切にします」という言葉のみに従って、解決を図ってみてください。それ以上の情報は一切なしです。具体的に何g入れれば…あるいは大匙(小匙)何杯入れればいいかは教えません。

たぶん、困ることになりますよね。

一見すると正しそうなのですが、実は単に原因を裏返したにすぎません。具体性が一切伴っていないのです。だから「確実に実施できる対策」にもなっていません。人の好みによっても変化するでしょうし、再現性もほぼ無いと言えます。

実際には「なぜ塩の量が適切でなかったのか」をさらに掘り下げて考える必要があるのにそこまでされていませんね。適切でなかったのは、適切でなくても気づかないまま料理が進んでしまうその仕組み、プロセスに原因があるからです。

すると、たとえば「計量スプーンを使って量らなかった」という原因になるかもしれませんし、なぜ使わなかったのか?というと、実は「計量スプーンがなかった」というようなより深い原因があるかもしれないわけです。

ここまで考えると、「計量スプーンを買ってくる」という「確実に実施できる対策」に移すことができます。

 結果(事象)
 →原因1(結果の原因)
  →原因2(原因1の原因)
   →原因3(原因2の原因)

と深掘りし、真の原因⇔結果間のトレーサビリティを確保する…もっと簡単に言えば

 『筋道を通す』

ことこそが、本当の意味で論理的であるということになります。


「事実とは違うものを原因として考える」という人は、気持ちや感情を原因として考えてしまうことが多いようです。『事実と紐づくことがどれほど大事なのかを理解せず、自分の想いや考えを優先したくて仕方がないんですよね。だから場合によっては、原因に「言い訳」が並ぶこともあります。

たとえば「料理がうまくできなかった」ということの原因として

 「初めてだったから」
 「気合が足らなかった」

など、実際にあった事実とは無関係のことを答えてしまいます。世の中の初めて料理を作った人は皆料理がうまくいかなかったのか?というとそんなことはないはずです。ビギナーズラックでうまくいく人だって世の中にはたくさんいるでしょう。

この手の言い訳を原因扱いすると、対策は

 「何度も作ってみる」
 「次は頑張る」

というようなアバウトなものになってしまいます。すると、本質的な原因には一切たどり着けなくなって、問題解決は迷宮入りしてしまうわけです。


いわゆる「なぜなぜ分析」というのは、こうした思想から生まれたものです。論理を「人間味がない」「冷たく感じる」なんていうのは、感覚に頼りすぎてその本質を見ようとしていない証拠です。論理は、事実を基に形成し、事実に常に紐づいて『筋を通す』理屈となっていなければなりません。だからこそ、正しい論理は疑いようがないし、それを人間の感情で捻じ曲げていいものでもありません。

 「信じたくない」
 「その通りにしたくない」

という感情を優先するかどうかは人それぞれですが、それと正しい論理を「正しくない」と誤認し、勝手に思い込み、あまつさえ他人に迷惑までかけてしまうのは許される行為ではないのです。

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