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プライドはコントロールが難しい

人材難時代に若者たちは引く手あまたの一方で、テクノロジーの変化の速い現代において「進化」に対応できない一部の男性たちに向けられる視線は極めて厳しいと言われて随分経ちました。

そう。

プライドの高い中高年です。

人生が長らく経過していく過程で、その「生きづらさ」の根っこに何があるのか。
最終的には4つの要因にたどり着いたと言えます。

それは「プライド」「羞恥心」「承認欲求」そして「男らしさの縛り」です。

中でも『プライド』ほど面倒なものはありません。
 
ちなみにみなさんはどうですか。
『プライド(誇り)』を持っていますか。

私は持っていません。

厳密には"誇り"は持っているかもしれませんが"プライド"は持っていません。
その意味は後ほど説明します。

そもそも失敗から何かを学んだり、他人の優れている部分を取り込む過程においてプライドは邪魔になりこそすれど、得するようなことはほとんどありません。

思考の柔軟性を著しく欠くからです。

プライドは冷静な思考を阻害します。
感情を優先し、自分で自分を特別扱いすることに固執しているため、その目的を果たせないほかの選択肢を否定するところから始める以上、邪魔にならないことのほうが稀です。だから、自己を成長させ続けることを第一に考えるならばプライドというものは邪魔でしかありません。

代わりに持つべきは『自信(セルフ・コンフィデンシャル)』です。

自信は結果に対するものではなく、経験と実力を基に未来に対して持つものです。「私は、過去にこんなことしてきたんだ!」ではなく「私は、過去に培った経験から、これからこんなことができるんだ(これからもこんなことをしていくんだ)」というものです。

過去ではなく、現在から未来を見据えることのできるマインドといっていいでしょう。

プライドは過去しか見ません。
過去の特権や実績にすがり続けるしかありません。

過去は確定事項であり、未来のような選択肢がないわけですから、思考が固くなってしまうのは致し方のないことかもしれません。

都内の製薬会社に勤める50代後半の男性は、定年後の人生を模索する中で、尊敬する先輩にこう言われた。「定年を迎えたら、プライドと肩書を徹底的に捨て去りなさい」。日本のおじさんの最大の呪縛はこの「プライド」という何とも厄介な代物だ。特に終身雇用、年功序列制度という「タテ社会」の中で、会社勤めの男性は係長、課長、部長…と役職が上がるにつれ、上から目線で話し、敬語で「かしずかれる」ことに慣れていく。「権力」という空気が「プライド」という風船を膨らませていくようなものだ。上司らしく振る舞わねばという責任感がいつの間にか、プライドやおごりになり代わっていたりする。

友人の選挙を手伝っていた女性は、中高年のボランティアの人たちと一緒に仕事をするうちにあることに気づいた。女性たちは、おしゃべりを楽しみながら、自然に共同作業を楽しむが、男性は時々、声がけや感謝の意を伝えないと「すねてしまう」ところがあったというのだ。

「『すねる』『ひがむ』『うらむ』という言葉の裏には『甘え』がある」と精神科医の土居健郎は著書『「甘え」の構造』で指摘したが、「無償の奉仕」に慣れない男性は、知らないうちに、自らの「奉仕」に対し「働きを認め、プライドをくすぐる」という「対価」を求めているところがある。

定年後の男性は、その知見と経験を生かしてボランティアなど社会貢献に携われば、
きっと尊敬され、自らの幸福感につながるのではとも思うのだが、「なぜ、タダで働くのか、その意味がわからない」という人が非常に多い。

ここでも「ある種のプライド」が邪魔をしていると言えるでしょう。

仕事という戦場で盾と剣で戦い続けているうちに「プライド」という分厚い鎧をまといやすく、そうして肥大化したプライドは人とつながりを作ることを非常に難しくします。

相手の気持ちに寄り添い、共感し合い、理解し合うことで関係性は深化していきますが、強すぎる「エゴ」(自我)を元に生み出されるプライドは胸襟を開いた「歩み寄り」を阻む傾向が強くなります。

これは、会社という狭い社会の中で、どちらかが上でどちらかが下という力関係に基づくコミュニケーションを続けているうちに、バリバリと働く女性であっても「プライド」を背負いやすく、「孤独」は今やおじさんだけの問題でもないと言われています。

プライドという言葉は日本ではなぜかポジティブに使われることが多い言葉ですが、実はキリスト教では罪の根源とみなされる7 deadly sins(大罪)の筆頭に挙げられています。筆頭です、筆頭。

 「傲慢」(pride:プライド)
 「強欲」(greed:グリード)
 「嫉妬」(envy:エンヴィ)
 「憤怒」(wrath:ラース)
 「色欲」(lust:ラスト)
 「暴食」(gluttony:グラトニー)
 「怠惰」(sloth:スロウス)

元来、プライドは自分の能力に対する"過信""おごり""高ぶり"を意味し、ほかの人の利益を犠牲にする極めて重大な罪であると考えられているものです。

 「Pride goes before a fall(プライドはつまずきに先立つ)」

ということわざもありますが、まさにプライドとは「おごれる者は久しからず」の「おごり(=驕り)」にあたるものなのです。

一方で、「誇り」に当たるプライドは、ポジティブな効果をもたらすことが実証されています。サウスウェールズ大学の研究ではプライドが忍耐力ややり抜く力につながり、勤勉さと献身に結び付くと結論づけられています。

つまり、プライドには「良いプライド」「悪いプライド」の2種類が存在するということになるわけです。

実際、英語では、

 良いプライドは、Authentic pride (正真正銘のプライド)
 悪いプライドは、Hubristic pride(高慢なプライド)

といったように区別されています。
勝手に区別しないようにしているのは日本だけです。

「正真正銘のプライド」とは、自分の持つ能力に対する誇りの感覚です。
先に説明した『自信』はこれに相当します。

自分の作り出す作品に対する誇り、仕事に対する献身やその成果に対する満足感など、自分の内面から湧き上がってくる「絶対的な感覚」。こうしたプライドは周囲から共感も得やすく、また自分のノウハウや技を共有し、他者をサポートしようとする行動につながりやすい傾向にあります。脳科学的にも、他者とのつながりを促進するセロトニンの分泌と関連付けられています。

一方で「高慢なプライド」は、自分の有能性や支配力を過度に誇示しようとするために脆弱な自我と不安、攻撃性を伴います。

他者、他部門と分け隔てなく、有効な関係を結べていますでしょうか。
いざと言う時に協業できる信頼関係が結べていますでしょうか。

こうしたプライドは男性ホルモンの分泌と密接に関わっており、他者との関係性を阻むと考えられているため、男性社員は常に「正真正銘のプライド」を持って自身をコントロールする術を身につけなければなりません。

すなわち「(精神的に)大人になる」ということです。

つまり、「誇り」とは他者からの評価とはまったく関係がなく、これから行うことへの「絶対的な自信」ですが、「傲慢」は実績や肩書や身分を根拠として「過去にすがる」ことで他者からの承認や評価に依存して得られるものとなり、他人と比較したときの優位性に基づく「相対的な自信」となるわけです。

こちらのほうは"百害あって一利なし"ということになります。

この違いがあるかどうかはすぐにわかります。

  • 「言ってること」と「やってること」が違う人

  • 言ってることを「他人にさせる」と「自分で体現する」で違う人

  • 「成功だけしか見ない」と糧にするために「失敗を常に見ている」で違う人

そもそも「良いプライド」とは謙虚さを伴うものです。

自身に満ち溢れ、無駄な驕りがない人は、必ずと言っていいほど相手に配慮するため、物腰も自然と柔らかくなります。職人が、現状に満足せずに、つねに高みを目指し、より良いものを作り続けようとする姿はこの典型と言ってもいいでしょう。

一方で、自分を進化させていく努力をやめ、他者との競争(だけならまだしも、貶めようとしたり)や、他者からの承認によって自己の存在意義を求めようとすれば、そこには最終的に「空虚さ」「孤独」しか残りません。

何よりもそういう人材ばかりしか残らなくなってくると、企業は確実に衰退します。

なぜなら他人を貶め、追い落とそうとする人が課、部、企業などといった組織の上に立つと、その人以上の実力や才能・実績がある存在はすべて貶められ、追い落とされてしまい、企業成長させるポジションに就くことができなくなってしまうからです。

 人は案外、まがい物のプライドにとらわれやすいものです。

人を解放し進化させるプライドか、人を閉じ込め退化させるプライドか――。私たちは人を評価するにあたって、そのプライドの真贋を見極めておく必要があるでしょう。 


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