論理的思考/ロジカルシンキングが大事!と言う人の大半が「論理」を理解していない
たとえば「1+1の答えを論理的に教えてください」と言われて説明しなければならないとします。
①「2に決まってる。子供の頃からそう教わってきた。」
②「0.記号の説明
n∈Nは「nは集合Nの元」または「nは集合Nに含まれる」ことを
意味し、X⊂Yは集合の包含関係、すなわち「XはYの部分集合」
であることを表す。
またf○gは「写像fと写像gの合成」を意味する。
s(N)は「写像sによるNの像」を表す。
1.自然数の体系
まず、自然数とは何かと突き詰めていくと、次の公理を満たす
ものであることが分かる。集合N、その中の一つの元0
(今は便宜上集合Nにゼロを含めて考える。
そうしたところで「1+1=2」の証明には差し支えない)、
および写像 s:N→N の組 (N,0,s) が次の公理を満たすとき、
Nの元を自然数と呼ぶ:
(P1) s:N→Nは単射である。
(P2) 0はs(N)に含まれない。つまり任意のn∈Nに対してs(n)≠0
(P3) S⊂Nで、0∈Sかつs(S)⊂S(すなわちn∈Sである任意のnに
対してs(n)∈S)ならば、S=Nである。
これを「Peanoの公理」という。
これから先の話はこれを前提として話を進める。
新しい用語として、n∈Nに対してs(n)はその「後継者」、
写像sは「後継者写像」と呼ぶことにする。
2.帰納的定義の原理
以下に述べる定理が、これからの全てのキーとなる。
この証明のよりどころは上記Peanoの公理のみである。
【定理1】Xをひとつの集合とし、
Xの一つの元xと写像t:X→Xとが与えられたとする。
その時次の性質(1)(2)を持つような写像
f:N→Xがただ一つ存在する:
(1) f(0)=x
(2) 全てのn∈Nに対して f(s(n))=t(f(n))
この定理から特に Peanoの公理の完全性、すなわち公理を
満たすべき体系は一意的であることも示される。
3.自然数の加法
定理1を用いると、自然数の体系に加法を定義できる。
【定理2】mを与えられた自然数とするとき、
(A1) f_m(0)=m
(A2) f_m○s=s○f_m
を満たす写像f_m:N→Nが一意に存在する。
任意のm,n∈Nに対してf_m(n)を、m,nの「和」とよび、
「m+n」と書く
条件(A1)(A2)によって
① m+0=m
② m+s(n)=s(m+n)
である。
またNの恒等写像も明らかに(A1)(A2)を満たすから、
全てのnに対して
③ 0+n=n
である。
さらに少々面倒な計算の後
④ s(m)+n=s(m+n)
も導ける。
これら①から④によって、我々の「当たり前」すなわち
「交換律」m+n=n+m、「結合律」(l+m)+n=l+(m+n)という、
自然数に於けるもっとも基本的な法則を導くことができる。
すなわち
【定理3】自然数の加法は交換律、結合律を満たす。
4.「1+1=2」の証明
上記のような予備知識を経て、本題にたどり着くことができる。
まずその前に「1+1=2」の何を示したいのかを考えておく。
それは、
(*)『「1」の後継者が集合Nのなかに存在する』
ということである。
「2」という記号はあくまで「記号」であって、重要なのはその
「2」という「記号」によって表される数が、きちんとPeanoの
公理に基づき、集合Nのなかに存在するかどうかである。
さて、s(0)、つまり「0の後継者」を「1」という記号で表せば、
①②によって
⑤ s(n)=n+1
である。
すなわち『後継者写像sは、“「1」を「加える」写像”n→n+1 に
他ならない』のである。
ここまでくれば「1+1=2」を示すことが出来る。
s(1)、つまり「1の後継者」を「2」という記号で表せば⑤より
s(1)=1+1
∴ 2=1+1となる 」
はい、どうですか。
みなさんだったら①と②どちらで答えますか?
ちなみに算数の基本数式である四則演算もこの②の定理が前提になければ成立しません。②の証明内容はわかりやすく言うと、
みかん1個 + ネギ1本 = それぞれ1個ずつあるだけで、2個にはならない
みかん1個 + 別のみかん1個 = 混ぜ合わさって1個になることはない
だから、みかん1個+別のみかん1個を足せば、みかんは2個になる
という証明式です。
言われてみれば当たり前のことですが、その当たり前を前提にしないと算数そのものが成立しません。「論理的に考える」「論理的に話す」と言うことは、答えを前にしてその生い立ちや成り立ちを一つひとつ順番に紐解いて"正しさを証明できる"、あるいは"根拠が明確に存在している"ことを証明するということを意味します。「論理的である」と言うことはそのいずれかを事前に準備できているということです。
「そう決まっているから」
というのでは、そう決まるまでに何がどうなっているのか全く説明がないため論理的ではない…と言えるわけです。思考停止している人の発想です。
「別にそんなの知らなくてもいいじゃん」と言ってしまえばそれまでですが、それは今回の例題に対してそうであると言うだけであって他の様々な課題や問題に対しても同じことが言えますでしょうか。
そして相手の納得を引き出すためにそれらを表現すると、当然ながら『長文』になるはずです。みなさんは、中でも
「論理的思考が大事」
「ロジカルシンキングが重要」
と口にしてきた人たちは、本当に論理的でしたか?
論理的風に語るだけならちょっと口が上手い人なら誰でもできます。
「〇〇だから、××です」
「××です。何故なら〇〇だからです」
と言う話し方をするだけでそれっぽく聞こえるからです。論理的な表現を盲目的に信用する人はこれだけでチョロく騙されることでしょう。
たとえば、理由や根拠として必要十分な要素が4つあったとします。
ですが詐欺にも似た"論理的風"に語るだけの人は、その中のたった1つをチョイスして「〇〇だから、××になるんです!」という…言っていること自体は大きく間違ってはいないのですが、〇〇だけが成立しても他の3要素が成立していなければ結局××となることはできない…という事態になったりします。
こういうなんちゃって論理的表現は後を絶ちません。
"論理"とは事象や結論、議論に対して、
それを説明するための理(ことわり)
のことです。理とは「筋道」「体系」のことです。ですから論理的であるということは、必ず筋道が明確に表現されていなくては成立しませんし、その筋道が体系的に誤りでないことが相手に伝わるようでなければ意味がありません。論理をきちんと理解すれば、それがMECE(漏れなく・ダブりなくの状態)でなければならないことが容易に想像つくはずです。
たとえば、
「今日は風邪のため、休みます」
は論理的のように見えて、厳密には論理的ではありませんよね。まぁ、風邪だってんだから休みを取ること自体は何も問題は無いんですけど。
「体調がおかしい」
「熱を測ると、平熱より高かった」
「病院に行った」
「診断の結果、風邪と言われた」 (←ここで風邪が確定)
「今日出勤しても、効率が悪い」
「ていうか、そもそも気分が悪い」
「ならば、体調回復が一番迷惑にならない」 (←ここが根拠1)
「今より悪化したら、もっと迷惑がかかる」 (←ここが根拠2)
と言った一連の流れがあって、その結果として「休む」という決断に結び付くわけですよね。裏を返せば、自分が平気と思っていて他人に迷惑が掛からないなら、別に出勤してもいいわけです(そんなことにはならないでしょうけど)。
本当に論理的な人かどうかは、会話やメールなどからすぐにわかります。
"やたら短文(結論のみ)を好む人"
"説明を求められているにもかかわらず、明示を避ける人"
"結論や答え以外に興味を持たない人"
"「~と思う」など主観的表現を多用する人"
は十中八九、論理的思考ができていません。証明するために必要な「順序だてて、一つひとつ仮説と事実に基づいて説明する」と言う流れを無視してしまっているからです。
論理的ではあるのだけど、長い経験から直感で閃いてしまう…なんて人も稀にいますが、そういう人は醸し出す雰囲気から既に「ロジカル」オーラが出ていたりしますね。
論理的思考はたしかにビジネスコミュニケーションとは相性のいい考え方です。報告やメールなどでも、
「まず結論から」
とはよく言われるものですが、論理的思考もまず結論から先に定義するため、親和性が高い考え方と言えます。
しかし、論理的思考を強調するのであれば少なくとも結論の他にその結論に至った「根拠」が明確にあるはずで、問われればその場で提供できる準備ができているはずです。もし、苦し紛れに説明しだしたとしても
"源流に至っておらず、話しがすり替えられている"
"根拠のよりどころが思い込みも甚だしい"
"事実に基づいておらず、己の意見になってしまっている"
"理屈として、第三者が到底納得できるようなものでない"
ようであれば「論理的思考ができていない人」で100%確定です。
論理的思考の本質的な部分は『数学』で得られます。『算数』では得られません。その違いは「"="の右辺と左辺の定義の違いにある」と以前お伝えしました。
問題が先にあって、答えを求めるのが『算数』
答えが先にあって、その過程を証明するのが『数学』
です。"="をはさんで左辺の答えを成立させる右辺であることが求められるものですが、当然ながら右辺から左辺に対しても成立していなければなりません。
ですので、たとえば
「人間は哺乳類である(人間 = 哺乳類)」
は、ぱっと見正解のように見えますし、論理的思考ができない人は騙せますが実は「人間とは何か?」という問いに対する答え方となっているため非常に算数的となっており、当然ながらこの結論は間違いです。
「哺乳類は人間である」
が成立しないからです。
正しくは
「人間は哺乳類の一種である(含まれている)」
「哺乳類の一種に、人間がある」
と説明するべき内容のはずです。もうここまでくるとただの言語表現能力ですが、それを疎かにするから論理的思考が身につかないのです。
ですから、理系大学出身が有利と勘違いされやすいのですが、理系専攻、理系大学出身で有利なのは、
そう言った表現方法に見慣れている
と言うアドバンテージがある…というだけで、必ずしもそういう考え方が身についているわけではありません。
そもそも「数学」を学び始めるのは中学校からですから、論理的思考の基本中の基本は中学数学からでも学ぶことが可能なはずです。特段、大学がどちら出身かなんて関係ありません。それを中学時代にできている人が少ないのは、試験や受験を見据えて
「方程式の暗記」と「解き方の手順の暗記」
に特化した勉強方法しか教えてもらえず、答えに至る解法を「証明している」と言う意識を持って取り組めていないからです。理系大学出身者であっても、受験戦争に勝ち残るためのテクニックとしてその多くを暗記に頼って合格していたのであれば、結局のところ本質的な能力は身についていないでしょう。
むしろ、豊富な文章に触れ、ボキャブラリも含め多くの表現力に富んだ文系出身者の方が論理的思考に触れてからの成長率は高いと言えるかもしれません。
色々な番組やブログ、書籍などでも散々言われていることですが、家庭環境の中で子供のうちから論理的思考を養うこともできます。それは先に事象や答えありきのものに対し
「なぜ、そうなるんだと思う?」
という問いかけを日頃から子供に投げかけているかどうかで決まります。たとえば、叱り方1つ取っても
「なぜ、ケンカしちゃいけないと思う?」
「なぜ、〇〇くんは泣いているんだと思う?」
「なぜ、遊んだオモチャは片づけないといけないと思う?」
「なぜ(Why)」から始まり、
「〇〇するためには、どうすればいいと思う?」
と言った形で一つひとつ順番に思考を誘導してあげると良いと言われています。ただイライラして「〇〇してはいけない」「なにしてんの!」と結論だけ言うのではなく、常に『なぜ?』と言う、答えに行きつくまでの過程を考えさせることで、論理的思考が育まれるそうです。
子どもの脳の成長は、およそ7~11歳の頃に論理的な考え方に切り替わっていくと言います。それをしっかりと誘導し、成長させているかどうかの親の教養を測るために、『お受験』では論理的な考え方にスイッチしていないと解けない問題が多く用意されているそうです。
解くためのレールを敷かれないと解けない子供が多い中、論理的思考を得ている子供たちは、今ある知識の中から『解き方を考える』ところから始めます。その成長度合いを確認するのがお受験です。
少し話がそれましたが、このように論理的思考は日々の『意識の』訓練で身につけることが可能なのですが、その意識を改革しないことには、
・ちょっとそれらしい本を読むだけ
・ちょっとそれらしいアピールしてみただけ
では身に付くことが叶いません。
「へぇ」「ふーん」「なるほどなー」と感心して終わりです。
論理的思考を身につけるには
「日頃から、『なぜ?』に興味を持つ努力をすること」
「安易に答えだけを欲しがらないこと」
「自分自身で考える癖をつけること」
「考えた仮説について、検証・証明する機会を設けること」
と言ったように、自分自身の頭脳と行動を駆使するしかありません。他人から得た知識で身につくものではないのです。ですから「他人に聞けばいい」「他人を利用すればいい」と安易に考える人ほど論理的思考が身につきません。
一方で、世の中には論理的思考を否定する人も多く存在します。
その最たるものが
「理屈っぽい」
と言う表現で他人をdisる人です。この方たちが論理的思考を重要と言うようであれば、間違いなく口先だけです。理屈・道理・論理はロジカルシンキングの柱となるモノです。これが用意できないロジカルシンキングと言うモノはありません。
ゆえに、理屈・道理・論理を提示すること自体を否定するのは、ビジネスにおいてはご法度なのです。特にお客さまや業者様等、対外的な場においては、
双方の納得や満足
を引き出すためにその場にいるわけで、その納得を引き出すために最も必要なのが「仮説」と「証明」である以上、そこで理屈を否定するようでは仕事の差支えにしかなりません。
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