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人を雑に扱うと、有能な人を遠ざける

小池一夫氏と言えば、日本の漫画原作者、小説家、脚本家、作詞家、作家で、作詞家としての別名は東 文彦と名乗っていることでも有名です。

ずいぶん前の話になりますが、そんな小池氏がこんなことをつぶやいていました。

まさしくその通りだと思います。今でも私の中では人生観の『柱』の1つになっています(まぁいっぱいあるんですけども)。

交友関係においても同じことが言えますが、もちろん組織上の人間関係においてもとても重要です。

 「ちゃんと扱われている」
 「大切にされている」

と感じるか否かは、組織の上下関係や、男女の恋愛関係における満足度に直接影響する、とさまざまなところで言われています。で、そう言うことに無頓着な人の言い訳の大半は

 「自分はちゃんと扱っているつもり」

と言うものなのだそうです。

幸福度や満足度は、与える側ではなく、受ける側の感じ方によって変わるため、相手のことをちゃんと見ていて、相手のことをちゃんと扱おうとする人は、何よりも受ける側のことを第一に考えるものです。

それを「自分は~」と主観的な発言で切り出した時点で、相手のことを見ていないことが丸わかりなわけです。それでどうして、ちゃんと扱っていると言えるのでしょう。

この手のタイプの人は、何を基準に「ちゃんと」があるのかはわかりませんが、基本的に自分本位で判断、決断、行動するタイプですから、当然のことながら"自分"を最優先にします。もしも相手の立場に立って考えるべき時であっても、スタイルは変わりません。自分の思った通りになってさえいれば、相手のフィードバックはどうでもいいのです。

言い方を変えれば、相手を対等な「人」としては扱っていないわけです。「道具」として扱っていて「このくらいなら壊れないだろう」くらいにしか考えていません。

人と言うものは、壊れなければそれでいいと言うものでもないはずですが、人の痛みを知らずに生きてきたのか、そのことが理解できていないのです。基本的人権を尊重しているわけでもなく、ただ単に「自分が損をするかしないか」を基準に、ギリギリまで他人を利用しようとしているにすぎません。他人を巻き込み、他人を利用するだけで、他人の人生には一切の責任を感じない…最低なコトですし、最低なヒトだと思います。

ですから、受ける側(感じる側)が

 「自分はこの人に雑に扱われている」

と感じたら、真実がそうであるかないかに関わらず、自分の身を危ぶんでその人とは疎遠になった方が良いのです。そう思わせた時点で扱っている人の努力が足りていないのです。

もちろん、我慢しなければならない時もあるでしょう。利用してこようとするすべての人を避け続けるにも限界があります。しかし、そう感じてしまうような人を相手にするときは、間違いなく大きなストレスを抱えることになります。

ストレスは万病のもとです。それを容認し続けるのは(超長い時間をかけて)自殺しようとしているに等しい行為です。

たとえば、

 タバコは1本あたり〇分の寿命を縮めている

という統計データがありますよね。

ですが、ストレスはそれをはるかにしのぐほどに寿命を縮めます。

過度なストレスに対する対抗策は

 ・ストレスを受けない環境に身を置く
 ・ストレスを発散する

しかありませんが、後者には限界がある上に、どんなに発散しても、完全にゼロになることはありませんし、その解消のために酒に逃げると、より病状は悪化することになりかねません。

「ストレス源をひねりつぶす」と言うのもあると思いますが、物騒な方向に進みそうなので、とりあえず選択肢から外しておきます。そう言うのは、相当な決裁権や決定権を持つ人の役割で、ストレスを受ける側ではどうしようもないことが多いので。

自身の人生を先までしっかりと見据えるのであれば、無理に我慢するよりも、「受けない環境」を作るなり、に逃げるなりした方がよほど現実的です。

そのため、小池氏が言うように、

 雑に扱われていると思ったら、
 距離を置くまたは離れる(別れる)

という対処法が有効になってくるのだと思います。そして、自身も同様に、相手にそう思われないようにするためには、なによりも

 相手を雑に扱わない

厳密には

 相手に「雑に扱われている」と思われない

努力が必要と言うことです。これを怠った時点で、それは「怠慢」であり、自業自得です。そうなってしまってはもう既にごっそりと人としての信頼を失っている状況なわけですから、もう一度チャンスがもらえるとは思わない方が良いでしょう。

こういう関係になってしまった時には「次からはちゃんとします」は有効にはたらきません。

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