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よそはよそ、うちはうち

大抵どの家庭でも耳にしそうな、子供の駄々に対する必殺技のようなセリフですが、結論から言うと、この言葉は世の中にある数少ない

 真実

の1つだと私は思うのです。いやその「何を言ってるんだ、この東洋人は」みたいな目で見るのヤメテクダサイオネガイシマス。

絶対比較と相対比較

もう少しビジネス的な表現で言うならば、この言葉は「絶対比較」「相対比較」の関係を表していて、「安易に相対比較に陥るな」ということを言っていると、私は解釈しているわけです。

たとえば、自分がテストで80点と言う高得点を取ったとしても、他人が90点を取っていたとします。この時、「だから自分の80点に対する価値が下がるのか?」と言うと答えはNOです。少なくとも80点をとれるだけの能力があることを、せめて自分は自身を褒めてあげるべきなのです。

 「他人よりも10点も低い」と見るか(相対比較)
 「問題の80%を解決できた」と見るか(絶対比較)

視座の位置によって、価値意識は大きく変わることになります。P.F.ドラッカーのいう「コップの水」理論と同じで、同じ事象であっても、見方が変わることで全く異なる価値意識ができあがります。

ドラッカーの著書「イノベーションと起業家精神」では、

コップに『半分入っている』と『半分空である』とは、量的には同じである。だが、意味はまったく違う。とるべき行動も違う。世の中の認識が『半分入っている』から『半分空である』に変わるとき、イノベーションの機会が生まれる

と書かれていますね。 

もちろん、「よそはよそ、うちはうち」というセリフに対して、多くの親御さんがそんなことまで考えてこのセリフを使っているわけではないと思います。大抵の場合は

 「よそはよそ(の都合や事情があって)
  うちはうち(の都合や事情があるのだから、同じものを求めるな)」

と言いたいだけなのでしょう。

しかし、せっかく言っていること自体は正しいのに、その正しい使い方を学ばないものだから次のような不幸が起きやすくなります。

たとえば、

スーパーでお菓子やおもちゃを買ってほしいと駄々をこねる子供に使っておきながら、近所の同学年の子の成績を持ち出して、子供に勉強を押し付けようとする

と言ったケースです。
昭和の時代にはよく見られた光景です(今は知りません)。

あくまで私見ですが、子供が小さい頃からそういった大人の(自己都合の塊のような)矛盾を見続けると、そうした不信感やぶつけどころのないストレスが積もり積もって、反抗期を迎えやすくさせているような気がします。

愛情がどうとか、コミュニケーションがどうとか、色々組み合わさっているのだとは思いますが、私はその中に

 大人の歪んだ都合のいい"嘘"

が多くの割合を占めているような気がしてなりません。小学生後半から中学生、高校生となってくると情報源が大きく変化し、メディアだけでなく友達からの口コミやインターネットからでもたくさんの情報が手に入るようになります。子供たちは、自分に向けてずっと継続されてきた矛盾に気付かないまま大人になるわけではないのです。

矛盾に気付くと、まず大人に対する不信感が生まれます。その不信感が高まる中、さらに大人から大きな圧力を受けると、そのアンチテーゼとして不良化したり、社会不適合者になったりしてしまっているのではないでしょうか。

こうしたことが

 反抗期

のきっかけになることが少なくないと思います。

私はたまたま長男と言うこともあって、一般的な子供としてはかなり厳しい育て方をされた方だと思います。そのせいか反抗期を迎える機を逸してしまい、なんとなく普通に大人になってしまいました。

けれども、不良化するには不良化する理由があり、そしてそれは必ずしも交友関係等だけが起因するものではないと思うのです。本来は、遠目に見ているだけで同じ道に行く気がなかった不良の道であったとしても、大人たちの圧力から逃げる…いわゆる自衛のためにそちらの道に行くしかなかった人も少なくないでしょう。

「子供に敬意を払われるべき大人」になり切れていない大人は、今少し自身を振り返ってみたほうがいいかも知れません。いずれ周囲の子供を著しく抑圧するようなことをしてしまうかもしれません。

 

「よそはよそ、うちはうち」でしょう

さて、同様に仕事においても同じことが言えます。

仕事…とりわけビジネスは、絶対比較でなければなりません。お客さま側に立った時だけ、一般消費者と同じく相対比較で購入を選定することができますが、そうでない限りは基本的にすべて絶対比較です。

たとえば、あるプロジェクトで問題が発生した際に

 自分は軽度の問題を犯した
 同期は重度の問題を犯した
 だから、自分はアイツより悪くない

と言った言い訳が通用するか?と言うと、答えは「NO」です。
軽度であれ、重度であれ、相手にも非があったとしても、自らの非は無くなるものではなく、問題は問題です。信賞必罰は世の常であり、問題に対する対価の支払いは社会の基本です。

お客さまとのビジネスでもめた場合も同様です。「〇〇が悪い」「うちは悪くない」と言う水掛け論自体が、精神的に大人になり切れていない証拠です。それこそ

 よそはよそ、うちはうち

でなければならないのではないでしょうか。

自分たちに悪い点があったのであれば、まずはそれをすべて認め、是正し、改善しなければなりません。相手を責めたって自分の問題が減るわけではないのです。ですが、多くの人は、自分以外に悪い人がいれば、その分『自分の中の悪い部分』は軽減されると思い込んでいるんですよね

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問題原因の所在はこのようにシーソーゲームでより重い方がすべての責任を被る…というものではありません。

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問題原因自体は双方に分割されているわけですから、それぞれが責任を持って対応しないことには根本的な解決になることはありません。

ですが、実際には何か問題があると心無い大人は「〇〇の方がもっと悪い」「(それに比べれば)うちは悪くない」といった、どうしようもない責任の擦り付け合いをします。

私も、ごくたまにこうした水掛け論の場に巻き込まれることがあるのですが、そんなことしかできない大人達が、子供たちにえらそうに「よそはよそ、うちはうち」などと言う資格がどこにあるのだろう…と、いつも心の中で首をかしげています。

問題を解決する手順の中に、"他人と責任を擦り付け合う"と言う手段が用いられることは絶対にありません。なぜなら、そんなことをしても解決しないからです。誰の目にも明らかな話のはずです。


「国会」では、毎日のように繰り広げられている

以前、国会で騒がれていた森友学園と加計学園の問題でも同じことが言えますね。野党は、とにかく与党を責めたいだけなのかもしれませんし、実際、本当に問題があったのなら、「色々と正すべきだ」とは思うのですが、土地代8億円がどうとか、36億円がどうとか言われていましたが、国会はその運営に平均3億/日消費すると言われていますのをご存知でしょうか。

平成 27 年度(2015年)国会所管 一般会計歳出予算各目明細書
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/osirase/kaikei-kakumoku27.pdf/$File/kaikei-kakumoku27.pdf

『衆議院+参議院+国会図書館÷365』と言う計算式で、1日あたり約3億7千万が使われているということがわかります。およそ1年半を使って、何を解決するでもなく、不起訴で終了したこの問題のために、いったいどれだけの税金を無駄にしたと思っているのでしょう?

疑惑があるなら警察や公安あたりに任せておいて、

 よそはよそ、うちはうち

の精神で、もっと国民のためになるような問題解決に尽力していれば、およそ1年半にわたる国会での…約1500億もの無駄な税金は、もっと有意義な結果を残せたことでしょう。

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