意見を聞く際にはその背景をも理解する
「人の話をちゃんと聞け」と注意されること、注意される人。
いますよね。
指摘をされてもわかったようなわからないような状態で注意された側は「いや、聞いてます」と答えてしまったり、あるいは確信犯的に「聞いても特に役にも立たないことだから聞き流してるんだけど……」と思ってしまうこともあるかもしれません。
質問されてもその質問の意図を正しく理解をしないままなんとなく「〇〇すればいいんじゃない」みたいなノリで軽く答えてしまったり。
特に歳を取れば取るほど他人の意見を聞き入れることが苦手になっていきます。
経験が多くなればなるほど過去の経験則に頼るようになってくるため、それがどんなに危険なことかもわからずどんどん自分の直感が正しいような錯覚に陥っていくのかもしれません。
本能によるものなのでしょう。常に自分自身の思い込みを疑ってかかる習慣が身についていない人にはなかなか難しい課題かもしれません。
さらに個人差はあれど、自分が何か意見を持っているトピックに対して異なる意見に触れた場合、大なり小なり拒絶反応を起こしてしまうことってあると思います。確証バイアスなどが最もいい例かも知れません。
何か知らない情報が含まれていたとしても単に自分が知らないだけ納得がいくような点があったり、あるいは全く予想もしなくて興味深い点が含まれたりすることに気づけば初めて受け入れ態勢を作っていけるのですが、そうでなければ大きく拒絶しだします。
たまに傍から見ていても「そんなにムキになって否定しなくていいのに」というくらい反論する人もいます。それほど人間は好奇心とプライドが織り交ざった感情で生きる生き物です。時として野生の獣と変わらないようなシーンも見かけます。
また、他人の意見を聞くというのは単に「聞けばいい」というわけではありません。
背景にある考え方から理解して、自分の腹に落ちること、さらには今後の自分の糧にすること。それができて初めて「聞いた」ということになります。
しかし、自分や自分の信じるものだけに固執する人はこれができません。
自分の中に最上位の解が常にあって、自分の信じるもの以外には常に最上位未満の解しか存在しないと思い込んでいるのです。ですから、決して他人の意見を素直に聞けません。
端的に言えば、これも「自己中心的」なのでしょう。
もちろん結果的にそれが正しい…こともあるでしょうから、そういう考え方そのものを無条件に否定するつもりはありませんが、それによって周囲に迷惑を掛けたり、自らが起こした問題を自らで責任が取れないようになるのであれば容認したくてもできません。
「一流」「プロ」を自覚するのであれば、自らの判断や行動は常に自らの責任において行われるべきであり、他責にするような人、周囲に迷惑をかけてしまう人は決してそう呼ばれることはないからです。
他責にするような人、周囲に迷惑をかけてしまう人はどんなに頑張っても「三流」。
優れた能力や見識だけがあっても「二流」が良いところです。
会話の中で異なる意見が出てきた場合に、わたしがオススメするのはとりあえず第一声を肯定する形にすることです。否定は絶対に口にしません。口癖にしてしまうのが一番楽です。
メディアを見たり読んでいるときに触れた場合には、独り言でもいいので口にしてみましょう。声にするのは恥ずかしければTwitterなどで呟いてみるのもいいでしょう。
具体的には
など、要するに相手の意見を受け入れるセリフにしてみるのです。目上の人に対しては「上から目線」の少し失礼なトーンが含まれる物言いもありますので、TPOに応じて使い分ける必要はあるでしょう。
人間とは不思議なもので、一度口に出してしまうとその後に発する言葉は、口にした内容を追いかけて考えようとし始めます。
「いったいどの要素が同意できるのか」
「どうした経緯でそういう意見が出てくるようになったのか」
などです。一度肯定的に返した反応と辻褄を合わせる発想にシフトしていきます。そうすれだけで頑固に拒否する姿勢はスッと溶けて、前向きな考え方に変わるはずです。
あわせて精神的に冷静にもなります。
そうすると「どちらの意見が良いか悪いか」ではなく、相手の意見を部分的に認めるように考えていきます。そうしたちょっとした大人の対応は、現実問題として大の大人すべてができるわけではありません。しかし歳をとればとるほど身につかなくなっていくものでもあります。
ですから私は新人教育のうちから常に言うようにしています。
と。
これまでにも何度かお伝えしてきたとおりです。
一流のビジネスパーソンは条件を考えずに無造作に「NO」と言うことはありません。
安易に「No」あるいは「No」に類する否定を用いる人は、一流/二流の前に精神的に子供です。最初から自分の考え方や意見以外を「一切受け付けない」「受け付ける気が端からない」という精神的未熟さを露呈しているにすぎません。
取り付く島もないほどになんでもかんでも否定するのではなく、
・認めつつ、改善を加えてもらう
・条件を加えて、認められる折衷案を模索する
など、互いにとって"前進"できるよう誘導するのが大人のコミュニケーションです。
ただ否定するだけ、ただ拒否するだけで何一つ落としどころを模索しようとしない頑なな姿勢は、子供のそれと変わりません。
私が行ってきた新人教育では、
「安易にNoと言ってしまう人間はまともなビジネスマンとは呼ばない」
「受け入れられる条件を確認せず、なんでもYesと言ってしまう人間も、
まともなビジネスマンとは呼べない」
と説明しています。
「Yes」も「No」も安易に使わない。
それが正しいビジネスのあり方です。
この意味が解らない人は、まだまだガバナンスやコンプライアンスに疎い可能性があるので気をつけましょう。
ひとつの物事を見たとしても、受け止め方は人それぞれです。
個人の性格や成り立ちなどにも大きく影響されます。
たとえば、コップに水が半分入っている状態について
「半分も入っているか」
「半分しか入っていないか」
はどっちが良い悪いではなく、どちらも事実としては同じことを言っているにすぎません。ただの捉え方の違いでしかないのです。であれば「どうして楽観的/悲観的な表現になるのか」その事情や背景についてお互いにわかりあうことことが大切だとは思いませんか?
そうしたプロセスを経ないで安易に白黒をつけたがってしまうと、いわゆる「人の話を聞いていない」「人の話に聞く耳を持たない」状態になっていきます。
やがては自分では気づかない間に周りの人から見たら「話しかけづらい人」になっていき、周囲からの情報も集まらなくなってきます。視野が狭くなり、思考の幅は狭まってきてしまい、交流する人の幅も狭くなっていきます。見事、ガラパゴス人間の出来上がりです。
世の中には「イエスバッター」と呼ばれていた人がいます。
何かを反論や指摘する時に会話のスキルとして「But」の前に必ず「Yes」を付けることで、相手が受け入れやすい姿勢を取ってもらうようにすることを自然にやっている人です。
何事も、何かを為そうとすれば、その結果のためのあるいはその行動のために必要な条件があります。
たとえば、ある人から仕事を依頼されたとして
「いつから取り掛かれるか?(開始時間の条件)」
「時間はあるのか?(スケジュールの条件)」
「その仕事を自分がやってもいいのか?(役割の条件)」
「他の仕事が疎かになっていないか?(現状課題の条件)」
「この人の依頼は、自分が勝手に受けてもいいのか?(権限の条件)」
「予算の出所はハッキリしているのか?(コストの条件)」
「あの人が言うなら…(人の条件)」
こうした条件がすべてクリアされて初めて「Yes」と言うことができます。
頭の回転が速い人はそれらを頭の中で計算し、ある一定の思い込みによって「No」と言うのでしょう。しかし条件は依頼者に確認し、調整してもらうこともできるはずです。
「あいつはここで譲ったりはしない」などと勝手に思い込んで、勝手に「No」を導き出す人はそもそもコミュニケーション能力や交渉力が疎い証拠です。
ですから何事も自分の中で勝手に完結させずに「Yes, But」で受け答えし、条件を満たせるのであれば相手に決定してもらい、満たせないのであれば相手に諦めてもらうよう誘導するのが優れたビジネスマンのあり方となるのです。
私が新人教育で伝えているのもこの「イエスバッター」です。
これができなければ
特定の仲良しとしかビジネス交流できない
誰とでも広くビジネスすることができない
という状況に陥ります。
交渉に限らず、様々な会話、対談などにおいても、正面から反論するより「そうですね」と1つクッションが挟まることで相手の態度を和らげるという一定の効果はあると思います。
とは言え、あまり連発しているとやはり人間は動物なので感覚的に見抜かれてしまいます。
「なんか…軽く受け流しているだけで、まともに聞いてないな?」
という不信感が芽生えてきてしまったらその不信感を払しょくさせるのは大変なことです。
「そんなことない」
「そんなつもりはなかった」
は言い訳になりません。
昨今のあおり運転犯や一般的な犯罪者が逮捕された際に
「〇〇するつもりはなかった」
「〇〇したつもりはなかった」
と言っているのとまったく同じレベルです。
つもりがあるかないかは関係ありません。
つもりがあっても、なくても事実に変化はないのです。
こちらの応対に対して"相手がどう受け取るか"しか価値がありません。
軽く受け流しているつもりはなくても相手がそう感じてしまう可能性があるなら、受け答えのバリエーションを2~3増やしておけばいいだけのことです。不信感を持たれてしまう方はその努力が不足している事実に変わりはありません。
そもそも、単に相槌を打ちながら話を聞いているだけでは「聞いているふりをしている」と思われるリスクとともに、内容に対する理解が深まっていきません。
やはり聞いた内容を、反芻するように自分の理解をもって披露することです。
仮に反論したい場合でも「~ということを言っていますよね?」というようにまず自分なりに理解の程度が間違っていないことを確認しないといけません。理解を間違えてピント外れなことを言ってしまったら、直してもらえばそれでいいというスタンスです。
私なら、
「要するに~と言うことですよね?」と言って簡潔にまとめてみるか、
「たとえば~と言うことですよね?」と言って具体例を身近なものに置き替えて理解内容が正しいか確認する
といったことを多くのシーンで行います。
どうしても真正面から反論や全否定したくなる、ならざるを得ないようなこともあると思います。そうした時でもいったん黙って意見を飲み込んで、一晩以上経ってから伝えるようにしましょう。
人というのは案外単純なもので、その場ではカッカと怒っていても一晩寝たりご飯を食べたりしたら怒りが半減してしまうことはよくあります。冷静になってみると自分の怒りがやや自分勝手な他責の姿勢から湧き出てくるものであったりもします。あるいは、そもそもそこまで怒るものでもないことや、相手が悪意を持って発信していないことに気づいてもう少し冷静にやり取りをしてみようとするなど色々な対応の幅が広がってきます。
そうした後に反論を切り出すと伝え方もまろやかになり、過剰な衝突は避けられます。
私は、多くの場合3度、あるいは半年から1年は我慢するつもりで常に応対します。
どんな相手であってもです(裏を返せば、私がキレているときは既にもう我慢の限界で末期状態ということです)。感情にかまけた反論は極力しないにこしたことはありません。
「くだらないことを言っているな/やっているな」
と思ったとしても、仕事の場では何かしらその行動を取っている理由があると考えます。その理由の意味や背景をどう捉えるかをいったん考えることが必要です。結果的にくだらないことだったとしても、です。
自分の言おうとしていること、やろうとしていることの筋が通っているか否かはなかなか自分では客観的にわからないものです。
気分を落ち着かせれば冷静な考え方ができるようになります。冷静になったうえで情熱的に話すようにしましょう。きちんと他人の話を聞いていく姿勢を取っていると、情報が集まって来ることに加えて徐々に信頼が積み重なっていきます。
また、いかなる時でもその姿勢を貫いていれば、信用も積み上げられていくことになります。
誰しも本音のところでは、自分の言ったことを素直に聞いてくれる人にしか話したくないはずです。ビジネスのうえでは他人との会話を拒否することはそうそうないとは思いますが、誰しもが相手を無条件に信用して話しているわけでもありません。
他人の話を聞いて、理解したことを言おうとすることは、ともすれば自分の無知を露呈したり恥ずかしい思いをすることもあります。
しかし、それを恐れず「信用」というお金で買えないものを得るために聞いて、話して…を続けましょう。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥
とは、つまりはそういうことなのです。
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