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須田光彦 私の履歴書29

宇宙一外食産業が好きな須田です。


坂田さんと設計を担当した案件がありました。

渋谷の、宇田川町交番すぐ隣のビルの3階の物件でした。

基本設計を坂田さんが担当して、基本設計に基づいて設計内容を肉付けしていきます。
その後、実施設計・詳細設計となっていきます。

基本的な平面プランが出来上がって、クライアントとも打合せをして了解を頂きました。
その内容にそって作図を進めていきましたが、どうも何かがしっくりとしません。


過去の経験から、しっくりと行かない場合は、その後何らかのトラブルや支障が出てきます。
うまく行くときは全てがうまく進行しますが、しっくりとこないときは決まって何かが発生します。

その感覚をずっと持ちながら作図を進めていましたが、ある時、ついに我慢できずに図面を勝手に描き直しました。

この案件は、1フロアー1店舗のビルでしたが、エレベーターを降りると直線的にお店に入店するレイアウトでした。

しっくりこない原因は、この導入部分にあることに気づきました。

エレベーターの扉が開いて、直進して入店するまでの距離が短く詰まった感じがしてしまいます。心理的にもお客様に期待感を湧かせるには距離が短く、まるでトンネルの中を通過するような雰囲気でした。
この導入部を過ぎて、扉を開けて入店する設計です。
大音量で音を流すので、エレベーターホールの前には防音の扉が必要です。
そうしないと、他のフロアーに音が漏れてクレームとなります。

防振装置も必要です。
音は振動ですから、防振装置は必要です。
踊ることもあるので防音と防振装置は必須で、ディスコを作るときのノウハウを取り入れました。


そこで私は、導入部を直進するプランから、一度右にクランクしてから入店する導線に変更しました。


ここの業態はカラオケクラブでしたが、客席ホールの中心線上に幅4mほどの大きなステージがありました。
ステージの両サイドには、真鍮とステンレスと大理石で作った太い丸柱があり、その柱に黒ヒョウが立って爪をたてていて、ステージバックはサンライズをイメージしたミラー張りになっています。

演出照明もその道のプロにお願いした総額3,000万の装置が入っており、スモークと背景の動画まで出てくる仕組みでした。

エレベーターホールから直線で入店すると、このステージの中心と、導入の中心があいません。
導入導線がステージの中心から1.5mほど左にずれます。

その結果、ホールのレイアウトもセンターがずれて、お客様が入店した際に席にご案内する際に、客席までの導線が長くなることと、スタッフのサービス導線とバッティングしてしまうレイアウトでした。


このレイアウトの利点は、センターをずらしたことによるアシンメトリーな心理効果と、ステージを左サイドから見ることによる、ステージの立体感を感じさせられることです。

ステージの両サイドの豪華な柱の感じや、黒ヒョウの存在感が強調できる点です。

坂田さんの設計は、お客様が入店した後の、ステージを見た時の感動を意図した設計でした。
でも、店舗オペレーションを考えると、商品の提供の際に客導線とバッティングすることは、大きな心理的・物理的負担であり、場合によってはクレームを誘発しかねません。

それらの点が、現場を多く体験してきた私にとって、違和感として引っかかっていました。

それまで、坂田さんのコピーとして、守破離の “守” のステージに居たので、坂田さんの指示は絶対であり、守らなければならないことでした。

でもこの時、坂田さんのプランを変更する提案を、勇気をもって社長と坂田さんにしました。

変更の意図と変更によるメリットとデメリット、店舗オペレーションについてなどを説明しました。

特に、自分が現場を任されたのなら、このサービス導線はスタッフに危険を感じさせるレイアウトで、回避したい重要なポイントであると伝えました。

社内での検証をした結果、社長が、
「そうだね、須田君のプランに変更しようか。 その方がオペレーションもスムーズだし、導入も演出効果を最大化できるね これで行こう」と、決めていただけました。

“守”のステージから、“破”のステージに移行した瞬間でした。

図面は大幅に書き直しです。
作業は一気に手戻りとなり、納期が危ないくらいの感じです。

でも、坂田さんは何も言わずに、

「スー やるぞ!」 

と、一言だけです。

その後、二人で黙黙と設計を進めてきました。


実は、このお店の店長は、社長が六本木のあるお店からスカウトしてきた人物で、バリバリの外食マンでした。
当時40歳くらいだったと思いますが、10代後半から水商売の世界に入っている猛者でした。

レイアウトの変更に関して、最終的にその店長候補の方の意見も聞こうとなりました。

変更前のレイアウトを見ていただき、検証を重ねた結果、最終的に私が提案したレイアウトになったことを伝えて、確認をしてもらいました。

その時に店長が言った言葉は、

「これ、こっち、決まり。 絶対にこっちですよ。 こっちじゃないと店は回せない」

次の言葉が印象的でした。

「流石、社長ですね、飲食店をよくご存じだ。 安心しました」

と、いうものでした。

この言葉を聞いて、社長は非常に喜び、プロとしての尊厳と威厳を守られたこと、クライアントサイドの責任者であり自分がスカウトした店長から、お褒めを頂いたことで、一気に承認欲求が満たされているのが解りました。


私が嬉しかったのは勿論ですが、坂田さんも喜んでくれています。


デザイナーとは、どこかで自分のデザインを変更されることを嫌がります。

でも、この時の坂田さんは嫌な顔をするどころか、どちらかというと安堵の表情で喜んでいました。

きっとこれ以上の図面の書き直しが発生しないことで、安堵したと思いますが、兎に角喜んでくれたことが嬉しかったです。


この瞬間、自分の成長を実感できました。


だからと言って有頂天になることも、坂田さんを超えたとも思えませんでした。


正直に言いますと、今でも坂田さんは超えられません。

ある部門では圧倒的に坂田さんを超越していますが、クリエイターとしての基本的な部分では、今生で超えることは不可能です。


もう、坂田さんが亡くなってしまった今となっては、不可能です。


超えることを私自身が許しませんので、絶対に不可能です。
絶対に超えたくありません。


守破離の、“離”はやりません。

このまま、いつまでも “スー” のままでいたいのが、私の偽ざる本音です。


独立してから、坂田さんを自分の会社のチーフデザイナーとしてお迎えして、そこからは対外的には坂田さんに社長と呼ばれ、私は「坂田」と言っていましたが、社内では、特に二人だけの時は、いつでも、いつまでも、 “坂田さん” で “スー” でした.

ですから、私は一生この “スー” のままでいたいのが本音です。


もう亡くなって8年が過ぎようとしています。
2021年1月14日で丸9年ですが、今でも

「なんで死んだかなぁ なんで一人で逝ったかなぁ」と、思います。


私の人生は坂田さんに出会えたことで、ある部分では大成功したと言えます。


一生涯を通して心から師と仰げる人と出会ったこと、その方と共に沢山の仕事をできたこと。
多くのお客様とクライアントに、楽しい時間と成功を提供できたことは、素晴らしい体験の共有でした。

でも、同時に、坂田さんの死をもって、私の中の何かは決定的に喪失しました。
欠落してしまいました。


それでも、私は前に進みます。


あの頃の、若かったころの情熱は、時代の変化に伴い形を変えてはいますが、今も存在しています。


16の時、お店を創る仕事がしたい、飲食店をサポートしたい、デザイナーになってそれらを実現すると決めた時から、今現在まで、基本は全くぶれていません。


今は、外食産業を、
40兆円産業にするのが、夢であり目標です。


多くの人は否定的なことを言います、その否定的な意見の理由も理解できます。

でも、偉業は常識外に存在しています。
歴史が証明しています。


数百年ぶりに時代が大きく変化しました。

風の時代を迎えたと、言われています。


何の時代でもいいですが、不変なことは、美味しいもの食べると誰でも幸せになること笑顔になること、食ばなければ人は死んでしまうこと、人は生まれてから死へ確実に歩んでいて、今生には限りがあること、これらは不変です。

変化変容することが物事の本質ですが、生きていること、死へむかっていること、沢山の経験をすること、これらは不変です。


坂田さんが見られなかった景色、
坂田さんと一緒に見られなかった景色を、
これから私は見ていきます。
実現させていきます。


話を戻しますが、この事務所もいよいよ5年が近づいてきました。

5年と期限を決めて、10年分の仕事をしよう、経験を積もう、認められ必要とされるようになったら卒業しようと、決めていた状況がやってきました。


この事務所の卒業は目の前です。

最後に受け持った仕事は、蒲田のカラオケルームでした。


確か岡山で、コンテナを活用した一人カラオケが出来るお店が、誕生しました。

カラオケボックスと呼ばれていました。


この蒲田のお店は、西口のモスバーガーの2階の物件でしたが、都内で初めてフードメニューを取り入れたカラオケボックスです。

当時は、カラオケボックスでは、誰もフードメニューは頼まないというのが定説でした。
実際、カラオケボックスが都内に次々とオープンしましたが、どこも飲食の設備はありませんでした。

そこが出店者側の利点でもありました。
飲食の設備を設置しないことで、投資額も抑えられて面倒なサービスもいらなくなります。

でも、人の欲求は必ずエスカレートします。
そうやって人類は、成長と繁栄をしてきました。

なので、私はカラオケボックスには飲食が要らないという定説を破り、都内で初めて飲食を導入しました。
業態のショルダーネームも、カラオケルームにしました。

部屋ごとにテーマの違ったデザインにして、音響もそれまでのカラオケクラブで培ったノウハウを導入して、勿論ある程度ちゃんとしたメニューも導入して、お客様をお迎えしました。


このお店が、大ヒットしました。

今では当たり前のカラオケルームのありようですが、この時に開発した業態でした。

この仕事を最後に、5年目の夏に卒業することにしました。

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