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須田光彦 私の履歴書15

宇宙一外食産業が好きな須田です。

私が1年生の時の3年生は、本当に強いメンバーでした。

常に全道大会に出場していましたし、地区大会ではダントツの強さでした。

1年生の時、全道大会の決勝で対戦したのが室蘭大谷です。

当時圧倒的な強さを誇っていた室蘭大谷ですが、室蘭大谷のサッカー部の監督は、私がいた帯広北高サッカー部の飯塚監督の大学時代の先輩です。

出身大学は国士舘大学です、昔の国士舘は今と随分と校風が違っていました、その時の先輩後輩の間柄です、ウチの監督は絶対に室蘭大谷の監督に頭が上がりません。

試合前に飯塚監督は必ず大谷の高橋監督に挨拶します、体育会系の伝統ですが、私は「行くなよ」と、思っていました。

これから決勝を戦う相手に挨拶に行くなんてと、当時高校生ながらに思っていました。

この時のお正月の大会で、室蘭大谷は全国で準優勝します。

大会を通じて室蘭大谷は3点しかとられていませんが、全国大会の決勝でとられて負けた2点と、全道大会の決勝戦の1点だけですが、その1点を取ったのが北高の3年生の先輩が中心のチームでした。

全国レベルの強さがあったチームでしたが、それが帯広北高の伝統としての強さでした。

しかし、私が3年生の時のチームは強いには強かったのですが、チーム内はバラバラでした。

私は2年生の後半からプレーイングマネージャーになっていました。

先輩の女性マネージャーの引退に伴って、監督から言われてプレーイングマネージャーを引き受けました。

プレーイングと言っても練習の補佐をする程度で、試合に出ることは絶対にないプレーイングマネージャーです。

このころのチームは統率力がなくなっていて、各年代がバランバラに活動をしているような状況でした。

先輩たちがいたころは上級生下級生入り混じって活動をしていましたが、我々の時はまとまりがなく酷い状況でした。

そんな状況でも強いチームでしたが、秋になり地区大会が始まります。

例年ダントツの強さで地区大会を突破し全道大会に行くのが通常です、誰もそのことを疑っているものはチーム内にもサッカー関係者にもいませんでした。

ところが、地区大会の1回戦で農業高校に負けてしまいます。

直前の練習試合で、10-0で勝利した相手に2-0で完敗しました。

試合終了のホイッスルが鳴った瞬間に、走馬灯のように3年間の思い出がぐるぐると頭をめぐったのを覚えています。

忘れていたようなことまで鮮明に映像が出てきました。

この試合のあと、何故か監督の責任問題だという話が持ちあがり、結果的にその年いっぱい監督は更迭となってしまい、サッカー部との関係を絶たれてしまいました。

その状況で我々は卒業しましたが、数年後、監督が60歳手前で勇退することとなり盛大なパーティーが開催されました。

歴代OBが大勢出席したパーティーでしたが、大先輩の数人が我々のテーブルにやってきて、「お前らか! 監督を引きずり降ろして恥かかせたのは!」と、叱責されましたが、それほどサッカー部の歴史的に大きな出来事でした。

実はこの負け試合の直前、3年生の主力メンバーがあってはならないことですが、前祝いと称して飲み会をしていました。

主力4人が飲みに行っていたために、試合では足が動かず走り負けて、試合に負けてしまいました。

このことを知ったのは、監督の処分が決まってからで、時すでに遅しで処分は撤回になりませんでした。

そのことも含めて、監督不行き届きとなってしまいました。

3年間耐えてきたのは、どこかで全国大会に出場するという目標があったからです。

学校の中でどんなことがあっても耐えてきたのは、暴力事件になって出場停止処分になることを回避するために、何があっても歯向かわずに我慢してきましたが、そのことも含めて一切が無駄に終わってしまいました。

前代未聞のことで1回戦敗退、監督更迭という、とんでもないことになってしまい、ショックのあまり私は始めて学校を3日間無断欠席しました。

この間、学校からも連絡が来ることもなく、近くの小学校のグランドで1日中ボールを蹴っていましたが、親も何も言いませんでした。

学校に戻って少ししたころ、監督に呼ばれました。

「3年生が飲みに行ってたことを須田は知っていたのか?どうなんだ?」と、質問されました。

勿論私は嫌われ者ですから、そんな情報が来るわけもなく、全く知らないことでしたが、
「お前が奴らの動向をおさえていないからこうなった、俺に報告がないからこうなった、お前の責任だからな」と、監督に言われました。

怒りがこみ上げるよりも、落胆したのが本音です。

心底がっかりしました。

「あぁ~監督も俺のせいにしたいんだ」と思い、それなら別にいいですよ!となり、卒業するまでの数か月ほとんど監督とは話しをしないまま卒業しました。

でも、監督も精神的にやられている頃です、サッカーだけが生きがいの人です。

あんなに元気のない監督を見たのは、後にも先にもこの時だけです。

その後2002年に後輩が全国大会に出場しましたが、サッカー部の卒業生で東京にいるのは私だけです。

この時はできる限りのサポートを、チームにも監督にも監督の奥様にもしたものです。

ちなみに監督の奥様は、北高の英語の先生でした。

最後の試合で敗戦した後は、私はサッカー部からも解放されて東京に行くことばかりを考えていました。

16歳の秋に目標が決まってから一貫して卒業したら東京だと思っていましたが、いよいよ間近に迫っている感じがひしひしとありました。

冬の手前に、3年生のサッカー部の卒業式があって、卒業の進路をそれぞれ言いましたが、そこで初めて東京に行くこと、デザイナーになることを言いましたが、誰も聞いていませんでした。

それでいいと思いました。

そんなある日、同じクラスのちょっとツッパっている女の子が、「須田、これ読んでみる?」と、差し出した本が矢沢永吉の“成り上がり”でした。

元々キャロルも矢沢永吉も幼馴染の重ちゃんの影響で好きでしたが、それまでレコードを持っていたわけでもありません、何かの時にラジオから流れてくる曲を聴く程度でした。

“時間よとまれ”が大ヒットした時も、矢沢永吉はテレビには出なかったほどですから、目にすることもありませんでした。

帯広にコンサートに来ることもありましたが、当時のコンサートはおっかない先輩や不良の集会場のようでしたから、怖くて行けませんでした。

何を思ったのかその子が、“成り上がり”を貸してくれました。

ぱっと開いて読み出しましたが、1ページ目からやられてしまいました。

今の自分の状況や、考え方から、体験まで、同じようなことが、普段使っているのと同じ意図の言葉で書かれています。

一気に読み切り、何度も何度も読み返しました。

1か月ぐらい借りっぱなしになっていて、「須田 いい加減に返せよ!」と、すごまれて返したのを覚えています。

このころはアルバイトをガッツリやっていて、多少自由に使えるお金があったので、街の本屋ですぐに買いました。

強烈に覚えていることは、サッカー部の連中に対して、
「お前らこんなちっちゃな街ででかい顔して無茶苦茶していい気になってるけど、今に見とけ、俺は東京に行って成功してやるから、今に見返してやるから、覚えとけ!」と、
本気で思っていましたが、そのまんまのことを矢沢永吉も本の中で吠えておりました。

その時、「あっ これでいいんだ こうやって成功した人がいるから、この方法でいいんだ」と、矢沢永吉の成功が私にとっての具体的な成功例となり、既成の事実として認識し、それ以降は私のバイブルとなりました。

おそらくそんな若者が、日本中にいっぱい居たと思います、上京後に何人もそんなことを言う人に会いましたが、偽物も多くいたのも事実です。

この経験から数十年後に、心理学の先生から、

「怒りを原動力で成功はできますが継続はできません、怒りの成功はいけません、須田さんは愛の力で成功しなければダメです」と、

教えられましたが、その数年後に怒りが原因で、結果的に全てなくすことになります。

40にもなろうかというころ、会社の経営も順調で年商3億を超えていました、私は何を思ったのか、一度一人で帯広に戻った時があります。

その時にサッカー部の同級生に会うこととなりました。

きっと、けじめをつけたかったんだと思います。

それなりの収入もあり、それなりの身なりもしていました、成功した人が一度は欲しがるものを手にもしていましたが、高校の頃あれほど見返してやると思っていた連中が、
「須田、その時計ロレックスか? 本物か?」
「給料いくらもらってんのよ?」
「家が世田谷って、やっぱり高級マンションか?」などと、
つまらないことを聞いてきて、挙句の果てに普段の生活の愚痴を言いだしました。

会社のことや家庭のこと、子供が反抗して言うことを聞かないことなど、自分はもっと酷いことを親にして来たくせに、子供の反抗期で悩んでいることが滑稽でした。

ただ、見返してやりたい一心で、出来ない我慢も我慢して東京でたった1人でやってきて、実際に今体験しているそのシーンが展開されたときに、「勝った」という感慨よりも、無性にむなしくて、「こんなもんのために俺は頑張ってきたのか?絶対に違うはずだ!」と、思ったものです。

とてつもなく大きな虚脱感に襲われたのを、鮮明に覚えています。

それから数年後、帯広に甘太郎が出店することになり、志願して設計担当となりました。

ビルとの出店交渉がうまく進展してしていない状況でしたが、ビルのオーナーに私が帯広出身であること、北高のサッカー部の出身であることを告げると、「なんだ!飯塚監督の教え子さんか、なら断われないなぁ! 監督に顔向けができなくなる、監督に恥はかかせられないわ」と、出店に向けて大きく動き出し、具体的な出店に関する課題の解決策を提示したところ、快諾を取り付け出店が本決まりしました。

たまたま、このビルオーナーが業界では有名な「北の屋台」を仕掛けた方で、その北の屋台が出店している土地を貸しているのが、サッカー部の同級生の実家で、唯一仲の良かった同級生で老舗の天麩羅屋の3代目社長でした。

彼は帯広のソールフードの一つである豚丼で東京にも海外にも進出し、どっちの料理ショーにも出演したことがある人物です。

大学卒業後、銀座の道場六三郎さんのお店で修業をしていました。

そんなこともあり快く出店を認めてくれましたが、工事が始まり毎週定例会がありますが、定例会が午前中だったこともあり前泊して、その彼の天麩羅屋さんにいつも飲みに行っていました。

するとあるとき彼が天麩羅を揚げながら、「明日朝6時からサッカーやるけど、須田もやるか?」と聞いてきました。

スパイクも着るものも何にも用意がありません、明日は無理だけれど次の週は出ることを約束してその時は帰りましたが、次の週はしっかりとサッカーの用意をして定例会に向かいました。

現場監督からは、「先生、本当の目的はサッカーですよね!定例化はついでですよね!」と冗談を言われるほど、楽しみにして帯広に行ってました。

大丈夫です、この甘太郎はオープンした年の12月に月商3,600万というとてつもない売上を上げて、東北・北海道で1位の成績を残しました。

仕事はシッカリとやっております。

このサッカーで、驚きの経験をしました。

現役時代は一度たりとも私にパスを出さなかったキャプテンが、アイコンタクトをして私にバツグンのパスを出してくれました。

その“パスを出すぞ”と、意識を送ってきた瞬間、本当にその一瞬で彼との出来事の全てと和解できました。

全てを許せ、彼と人生で始めてつながれ、自分自身をも許すことが出来ました。

サッカーに救われました、サッカーで許すことが、呪縛から開放することができました。

倒産した時に監督から電話があり、心配していること、お前はあの過酷な3年間を過ごした根性があるサッカー部の卒業生だから大丈夫だ頑張れと励まされ、そう言えばキャプテンがすいぶんとお前のことを心配していると、一番心配していると教えてくれました。

ただただ、涙が止まりませんでした。

嬉しかったのは勿論、いつまでたっても監督は監督なんだなと思いました。
いつまでも、子供たちをみてくれているんですよね。

今は、TwitterやFacebookでキャプテンとも天麩羅屋の同級生ともつながっていますが、56歳のキャプテンの誕生日に、出会って40年が経過して、現役時代は色々とあったが、お前のおかげで随分と鍛えられた、そのおかげで、東京で頑張ってこれた、今では深く深く感謝していると、初めて感謝を伝えることができました。

お互い50も後半になり、子供らも巣立って、おまけにキャプテンはハゲちらかして、昔はバッチリリーゼントだったのに、すっかりオヤジになったなと、お互いに笑っております。

今度帰省した時には、サッカー部のみんなで美味い酒を飲もうなと約束をしています。

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