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正当化することは簡単 / 「ミシシッピー・バーニング」

May God enlarge Japheth,
and let him dwell in the tents of Shem,
and let Canaan be his servant.
(神はヤペテを大いなるものにして)
(セムのテントに彼をすまわせるように)
(そしてカナンは彼の使用人となるように)

Genesis 9:27

演技力があり、独特の雰囲気を持った俳優といえば、僕はジーン・ハックマンを連想する。先日noteに書いた「遠すぎた橋」ではポーランド軍のソサボフスキー准将を演じていたし、「フレンチ・コネクション」や「スケアクロウ」など多くの名作に登場しているが、今回は1988年の映画「ミシシッピー・バーニング」を取り上げたい。
本作は1964年にミシシッピ州のフィラデルフィアという紛らわしい名前の街で、公民権運動の活動家3人が殺害された事件をモデルにしたスリラーだ。映画の冒頭で3人が撃たれ、FBIのアンダーソン捜査官(ジーン・ハックマン)と、ウォード捜査官(ウィレム・デフォー)が街にやってくるところから始まる。
本作は128分の上映時間だが、そのなかで苛烈な人種差別と、KKKをはじめとする白人たちの専横がこれでもかと描かれている。今日でもこうした表現を"見たくない"と感じる白人は決して少なくないだろう。たとえば、この映画の舞台となっている1964年に10歳だった子どもは、現在70歳である。KKKなどが過去の遺物ではないからこそ、つい先日の Black Lives Matter 運動に至るまで、司法などアメリカの多くの制度において黒人への差別が根強く残っていたわけである。
人情味のある捜査官のアンダーソンと、堅物のウォードという2人によるバディムービーだ。こうした映画を観て「白人の救世主だ」「白人の目線でしか描かれていない」「実際の事件でFBIや司法省はまるで協力しなかった」などと言ってもあまり意味がない。なぜなら、こういうノンフィクション・フィクションとは、事件そのものについてみんなに知ってほしい、考えてほしいということが主眼なのだ。FBI捜査官を主人公にする以上、白人でしかありえない(当時黒人のFBI捜査官はいない)し、何かを物語るという行為は常に、視点をどこかに据えなければならない。
南部の貧しい白人たちは、その不満の捌け口として黒人やユダヤ人、共産主義者を敵対視していた。冒頭に掲げた創世記の一節は、公民権運動の頃に白人たちが黒人差別を正当化するためによく引用していた箇所だ。どんなことであれ、人は自分のしていることを正当化するものなのだ。こういう姿を見て、どこの国の人であっても、自分たちもまた似たようなことをしていると自覚できるかどうか、それが問題だ。Jアラートだなんだと、外に"敵"をつくろうとする政府は全て、国民の敵である。
「ミシシッピー・バーニング」は他にもフランシス・マクドーマンド、R・リー・アーメイなど、見慣れた顔が脇役として登場する。ちなみに、ほんの数秒しか画面に映らないものの、FBI捜査官の1人としてトビン・ベル(映画「ソウ」シリーズのジグソウ役)も出演している。
人間がみんな持っている差別の心について考えさせられる佳作だ。

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