政府の言うことはだいたいウソ / 「JFK」
ここ数回のnoteは、現実(reality)というテーマを扱ってきたので、実際(real)の事件を題材にした1991年の映画「JFK」について書きたい。というのも、この事件ほど真相が藪の中にある出来事も珍しいからだ。
オリヴァー・ストーン監督がニューオーリンズの地方検事ジム・ギャリソンを主人公にしてケネディ大統領暗殺の真実を暴こうとする本作は、実際の事件とその捜査を"フィクションとして撮る"という画期的な映画だった。カポーティ風に言えば、ノンフィクション・フィルムだろう。もちろん、当時はまだ検証されていない多くの説が次々と取り上げられているので、「これは史実と異なる」と指摘することは簡単だが、もちろんそんなことに何の意味もない。これは映画だし、そもそも"公式発表"というものが如何にデタラメであるかを知らない時点でアホだからである。誰もが嘘をつくからこそ、アメリカの大統領の暗殺という大事件でさえ羅生門になってしまうのだ。
主演のケヴィン・コスナーはハマり役だったし、脇を固める俳優たちもトミー・リー・ジョーンズをはじめ、ゲイリー・オールドマン、ケヴィン・ベーコン、ジョー・ペシなど錚々たる面子である。
あらすじは特になく、ギャリソンの捜査や調査と裁判、そしてケネディ大統領が暗殺された実際の映像を交えて"物語"は進行する。ウォーレン委員会の報告書や新たな証言を紹介していくなかで観客は"これは単独犯じゃない"と確信するようになっていくし、ストーン監督の目論見はそこにある。ケネディ大統領を暗殺したのは誰なのかという映画を撮りながら、ケネディ大統領の暗殺という大事件に至る巨大な背景、力の源を映し出そうとしている。そして何よりも、そうしたことについて観客が考えることが民主主義のためになるというストーン監督の信念だろう。
この列島でも孝明天皇の急死や、国鉄の下山定則総裁の轢死体の発見など、いくつも不審死が発生してきたのだが、政府の言うことが大好物の日本人はこうした事件を映画や小説の題材にすることがほとんどないので、国民も興味を持っていない。多くの国民やメディアが政府の批判をしている国こそ民主主義に近いのだから、ここはまさしく全体主義者のユートピアである。
僕は「JFK」を観てからたくさん調べてみて、やはりジョン・コナリー知事の初期の証言がいちばん信用に値するものだと思っている。すなわち「後方へ振り向いた時には既にケネディ大統領は喉を撃たれていて、じぶんはその直後に撃たれた」というウォーレン委員会の報告書にも掲載された証言だ。この証言が真実だとすると、報告書の結論とは矛盾することになる。
様々の説が劇中で紹介されていき、どれが real なのか分からなくなっていくが、それこそが我々がふだん現実(reality)と呼んでいるものの正体だ。世間のイメージとは異なり、ケネディ大統領はマフィアと密接な付き合いのあった後ろ暗い大統領である。今日では選挙不正もバレている。清廉なイメージは暗殺に伴ってデッチアゲられたもの、フィクションである。暗殺の動機はいったい何だったのか、ずいぶん時が経った今日でも未だ藪の中ということは、政府すなわち公式な報告書が嘘をついているということの他に理由はないだろう。
民主主義という理念のために多くのメディアやジャーナリストが活躍しているアメリカでさえこの有様なのだから、千代田区で何が起きているか想像に難くない。デモクラシーというものは育てるものであって、置物のように放置していても構わない"制度"ではないのだ。
「JFK」以来、ストーン監督はどんどん政治色の強い映画を撮るようになり、ビジネスとして成功する道から離れていった。それもまたアーティストらしい生き方である。
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