不条理を撮った映画 / 「戦場にかける橋」
僕の父親は風呂上がりやクルマの運転中にクワイ河マーチのメロディをよく口ずさんでいた。1957年の映画「戦場にかける橋」のテーマである。良い映画だぞ、と父親は言っていたが、確かに本作は第二次世界大戦を扱った映画の最高傑作だと思う。もう70年近く前の映画になるが、日本人が"観るべき"作品の一つである。
この映画は、大日本帝国陸軍が主に捕虜を動員して建設した泰緬鉄道(タイとビルマを結んでいた鉄道)の話である。過酷な労働を強いられた捕虜に死者が続出したことから英語圏では death railway (死の鉄道)とも呼ばれる建設現場のうち、映画ではクワイ川に架かる橋を造ろうとしていた。捕虜に建設を命じる斉藤陸軍大佐(早川雪洲)、ジュネーブ条約違反だから協力できないと主張するニコルソン英軍大佐(アレック・ギネス)、収容所から脱走して橋の爆破を目論むシアーズ米軍中佐(ウィリアム・ホールデン)の三つ巴がストーリーの骨子だ。
この映画が他の戦争映画と異なった点は、斉藤に反発していたニコルソンが"英軍の捕虜の士気の向上とその実力を知らしめるため"に、橋の建設に協力したことだった。橋の爆破に戻ってきたシアーズ中佐たち決死隊は目を疑い、陸軍と撃ち合いになる。決死隊のメンバーによって斉藤は刺殺され、ニコルソンとシアーズは銃殺され、橋は通過してきた列車もろとも爆破された。
これは「シーシュポスの神話」を彷彿とさせる話である。アルベール・カミュが1942年に出版した哲学エッセイで、不条理(absurdité)について考察したものだ。「戦場にかける橋」の原作者のピエール・ブールはフランス人であり、おそらくカミュらの議論を参照していたに違いない。山頂までシーシュポスが岩を運ぶと転げ落ち、またシーシュポスはそれを延々と繰り返す、というように、人生とは何もかもが台無しになってしまう不条理そのものであるという思想がこの映画には満ちている。つまり、161分の本作を観てきても、最後に橋は吹き飛んで列車の乗客もろとも登場人物たちもほとんど死んでしまう。戦争の勝ち負けを越えて、ここには人生そのものの不条理が表現されている。
軍の命令を遂行しようが、英軍の誇りだろうが、敵の撹乱だろうが、本人たちは必死になるかもしれないが、それら全てが無意味に見える映画だ。ほとんどの戦争映画はここに"意味"を見出そうとするし、"意義のある死"のような寝言を言わせたりするが、実は初めから何も無いに等しいのではないか、という本質的なことをこの映画は観客に問うている。戦争の悲惨さ、ではなく、人生の無意味さだ。クワイ川に橋をかけるという作業は一種のたとえ話に過ぎない。これは戦争映画のようでありながら、人生について問いかける哲学だと思う。
ちなみに、この川は原作者がクワイ川と勘違いしただけで、実際はメクロン川だったのだが、映画の大ヒットによって観光客が押し寄せるので、タイはこれをクワイ川に改名した。いかにもタイらしい話だ。現在でもカンチャナブリーという街の観光名所である。こういう映画が大ヒットしたのも戦後ならではだろう。死を身近に感じた人たちにとって、この映画のやるせなさは腑に落ちるものだったのだ。
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