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あらゆるものの用途を間違える才能に気付いていない日本人

たとえば「戦場のピアニスト」にせよ「ソフィーの選択」にせよ、ナチスとその影響を扱う映画は山ほどあるが、この列島の観客の大半はナチスについてほとんど知識を持っていないだろう。いくらフィクションとはいえ現実の世界に基づいた話なのだから、ある程度の知識があった方が良いことは誰でも分かると思う。このように、何かを上手に受け取るには素地が要る。そんなのめんどくさい!という方のための”ムービー”なら溢れているものの、そうした娯楽すら他の映画のパロディをしていたり、言葉遊びをして観客を笑わそうとしているものだが、そういうことは字幕や吹き替えではうまく伝わらない。つまり、その人の持ち物によってモノの見え方は異なるという残酷な現実がある。これを極端に表現したキャラクターがシャーロックでありレクター博士だ。しかしこれは、世の中にはシャーロックとたくさんの凡人がいるということを意味するのではなく、物事がよく見えている者から何も見えていない者までの確率密度関数がガウス分布になるということだ。と書くと分からない人が多いので、富士山の稜線のように中央が多くて裾野が広がるグラフになる、ということだ。
他のnoteをざっと見回すと、どの”映画評”も、いいねがたくさん付いている。ではそういうnoteは皆の興味の最大公約数を書いているのかというと、”相互フォロー”と”相互いいね”という、本来の用途から逸脱した行為の賜物である。この”本来の用途”が抜け落ちるという点が、この列島の得意技だ。教員制度があれば、その制度を維持するための些事ばかりが増えていき、本来の”良い教員を養成する”という目的がどこかへ行ってしまう。この国のあらゆる組織はこうした”手段の目的化”で腐っていく。いいねを押してもらうための行動なんて馬鹿らしいことこの上ないのだが、なぜここではこうした手段の目的化が流行るのかというと、上記のグラフの中央値が、よその国より低いからだと結論づけざるを得ない。つまり、何の中央値かと言うと”脳全体の機能”である。
”承認欲求”などという奇妙な単語を使って説明することが近年の流行らしいが、その言葉が指しているものは世界中だれにでもあるものだ。ところが”F外失”や”フォロバ”などという正気とは思えない言い回しが当たり前のように日本語のインターネットで飛び交う現実は、そもそも物事の用途や目的が見えていないとしか思えない。木を見て森を見ず、という言い回しそのものである。そしてこの原因とは、中央値が低いこと、言い方をかえるなら、真っ当な大人に成長できなかった者(脳)が多いということだろう。
F外失を拡張すれば、この列島によくある企業グループや関連会社になるし、フォロバとはお歳暮と同じロジックだ。寄らば大樹の陰が染み付いている。こんなところで民主主義や public なんて育つわけがないし、政権が全く変わらないことも当然である。そして、こういう人たちには娯楽しか必要がないので、”社会派”の映画(そんな言い回しは英語にない)が全く存在しない列島が出来上がったのだ。Netflixの日本のランキングなんてほとんどアニメと韓流ドラマである。黒澤明の国なのに、もはや映画なんてほとんど不要になっている。
この国がヤバいのは、国民がそのヤバさに無頓着ということだ。だからこそ、どういう風に行動すればいいのか政府が指針を決めろ、なんていう噴飯ものの発言がまかり通るのである。

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