コピーはコピーライターの作品なのか
デザイナーでアーティストな新しい友人との豊かな雑談から刺激を受けて、ぶわーっと考えたことをまとめておく。
クライアントワークは制作者の作品か
クライアントから発注を受けて、制作者として携わった広告、コピー、デザインなどを、制作者の「作品」と呼ぶべきか否か問題、というのがある。業界のアワードなどでは便宜上「(応募者の)作品」と呼ぶことが多いが、呼ぶべきではないという考え方もよくわかる。
自主制作ではない、発注者が存在する仕事のことをクライアントワークと雑に括ってしまうことがおれは多いが(反省)、クライアントワークにもふたつある。
ひとつは、発注者がいて、条件も課されるが、それを踏まえてあくまでも制作者の表現として発注されるもの。著名なミュージシャンが広告やドラマなどに書き下ろす楽曲や、発注を受けて書かれる谷川俊太郎の詩もこれにあたる。
この場合、クライアントワークだとしても、その制作者の作品と呼ぶことがすんなり許容されるように思う。谷川俊太郎はその作品の多くが発注あってのものであることを明言しているし、それをもって「谷川俊太郎の作品ではない」とは言えないだろう。つまり、自発的な制作か否か、その制作費を誰が負担しているか、などは、作品と呼べるか否かと実は関係がない。
もうひとつは一般的な広告のように、原則として制作者が完全な裏方とされるもの。この場合、仮に制作者の個人的な思いが込められ作られたコピーだとしても、その言葉はあくまでも「発注者の言葉」として世の中に読まれる(べき)であるし、スタッフのクレジットが公開されてもそれは業界内の補足情報というか、おまけのようなものである。
こちらのクライアントワークの場合は誰の作品と言えるかは微妙なところで、たとえば広告のための映像を制作した場合はどうだろう。その映像を「監督の作品」と呼ぶことにはあまり違和感がないように思うが、「プランナーの作品」と呼ぶのはちょっと抵抗がある、じゃあ「クリエイティブディレクターの作品」ならいいのか? うーん? というような、これはおれの感覚的なものかもしれないけれど、職種によるかもなあ、というのがある。
また、広告の場合はそもそも、ひとりで全部つくるということがあまりない。作品と呼ぶにしても、クリエイティブディレクターをはじめとするチーム全体の、そして発注者も含めた、みんなの作品と呼ぶべきかもしれない(コピーのアワードに「受賞対象者が誰なのか」をめぐるあれこれはつきものである)。それでいうと、広告ではないけれど、建築が建築家の作品として扱うことが許容されているのはちょっと不思議な感じがするけれど、それだけ裁量があるということでもあるだろうし、慣習的な部分もあるのかもしれない。
ちなみに「裏方であることの美学」みたいなものをお持ちの広告制作者も少なくないが、それって美学というか業界の渡っていきかたじゃないのという感じもする。業界内や社内で知られてさえいれば仕事が来るという立場の人はいるし、匿名であることにもメリットはあるので。
テクノロジーの進化と制作者の交換可能性
「生成AIが盛り上がってるけど、コピーライターの仕事は大丈夫か?」と心配されることがある。それっぽい美辞麗句をつくるだけではい、コピーライターにできることは何なのかを、きちんとアピールしていかなくちゃいけないなあ、と身が引き締まる。
生成AI以前から様々な分野で語られ続けていることだけれど、テクノロジーが進化して専門的な知識や技術がない人の手にもたらされると、とりわけ「それっぽいものが作れればいい」領域や局面において、プロの制作者は仕事を失っていくし、そうではない違いを出していくことが求められる。
と、なったときに、原則裏方であるクライアントワーカーとしての広告制作者は「透明な表現職人」であるべきなのだろうか? それで生きていけるのだろうか? 他の誰でもなく、AIでもなく、自分が選ばれ発注されるために、本当にそれでいいのだろうか?
人当たりのよさや、制作プロセスのスムーズさで選ばれ続けることはあるだろうし、そういう戦い方は全然ありだと思う。今はまだ。でも、それだけでこれからも生きていけるほど、潤沢な予算と余裕あるビジネスがおれのまわりに存在し続けるかどうか、という点にはわりと悲観的だ。今42歳だけど、それだけじゃ逃げ切れないだろうなあ、と思っている。
「人の手で書いた、温かみのあるコピーです、どなたでもご発注ください、お茶も沸かしてございます」
おれの師匠は、まだペーペーだったおれにも「あなたのコピーはあなたにしか書けない」と言ってくれた。コピーライターの前田知巳さんは「よいコピーライターになるためには、いかによく生きるか」的なことを言っていた。制作者はどこまでいっても完全な透明にはなれない。コピーライターなら選ぶ言葉に、絵描きなら描く線に、人生が必ずにじみ出る。このことをおれは今も信じているけれど、これだけを信じてやっていくのは今や、ちょっとナイーブに思える。
「作品」を「お渡し」する
いきなりの結論というか、現時点の仮説というか、単なる決意かもしれないけれど。クライアントワークであろうがなかろうが、広告コピーであろうがなかろうが、「自分(だけとはいわないが)の作品である」と胸を張って言えるような、少なくともその心持ちでいられるような、そういったものを作り続けたいな、と思う。
コピーライターの坂本和加さんが著書で、発注されて作ったコピーやネーミングなどの言葉をクライアントに「お渡しする」という書き方をしていて、たいへんしっくりきたのをおぼえている。坂本さんは「作品」という言い方はしていないけど、コピーライターの肉体を通して作られた、そのコピーライターにしか書けなかった言葉。ただし、お渡しした後は、それはクライアント自身の言葉になる。代弁・代筆ではあるけれど、それだけではないようなありかた。
「自分らしさ」とは「思想と技術、嗜好と制約」
じゃあ、そのためにどうするか。「自分らしさを練り上げる」という言い方が好きでよく使うのだけれど、自分らしさって何なのよというのを、ただ人生というのではなく、もう少し具体的にできないかなと思ってあらためて考えた。そしてひとまず「思想と技術、嗜好と制約」と規定してみた。今まで得てきた・これから得ていく知識と経験、自分ではコントロールし難い好みとその変化、環境と時代、条件。
これらと向き合い、検討し、混ぜ合わせ、表明していく。そんなことを念頭に「作品」を作る。「作品」を作ることで、「思想と技術、嗜好と制約」が「自分らしさ」として練り上がっていく。さらに作る。作りまくる。自主制作もしたければする。コピーライターの自主制作って何なのかよくわからないけど。
そんな感じの日々をおくれたらいいな、と思っている今日この頃です。
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