見出し画像

春の訪れと「焦り」にまつわる意外な記憶

北杜に移住して三回目の春がやってきた。

街の桜はちょうど満開。我が家の庭の植物たちも続々と芽吹きはじめ、虫もカエルもモゾモゾと動き出している。

「やっと暖かくなりましたね」とか「お花見はされましたか」とか、ご近所の方々と声を交わしたり、甥や姪の入学式の様子が写真で送られてきたり。

春はやっぱり何かと嬉しい気持ちになる。

…が、一方で、この季節は昔からメンタルが不調になりがちだった。

ひとことで表すなら「焦燥感」。生き物としての自然な衝動なので、動き出したいという気持ちはあるものの、「休んでいる場合ではない、やらなきゃいけない」という焦りやプレッシャーも強く感じてしまう。同じような状態の人はきっと多いだろう。

私の場合はつい先日、特に強めの焦りの波が押し寄せて、わかりやすく気持ちが落ち込んだ。要因として具体的な出来事は思い当たらず、何か心の奥底にあるものが疼き出し、エネルギーを奪っていくような感覚…。

直近、この「焦り」と向き合うことによってちょっとした発見とデトックスがあったので、noteにも記しておこうと思った。


「焦り」の感情を深掘りする

昨年からずっと自分の内面にある「ネガティブな感情を手放す」ことをテーマに日々を過ごしている。

これを私は「ブロック解除」あるいは「思考のお掃除」と呼んでいて、作業としてはもうだいぶ慣れてきたと思う。ネガティブな感情が湧いてきても「あ、また出てきたな。はい、解除解除!お掃除お掃除!」と半ば面白がるような感じである。

(思考のお掃除については、昨年末にもnoteで書いた)

この春の訪れとともにやってきた「焦り」にしても、何か手放すべきものがあるというサインであることは間違いないので、例によって深掘りしてみることにした。これは私のどんなネガティブな記憶や思考とつながっているのだろうか、と。

***

いつもだいたいお風呂の中で瞑想のような形でセルフワークしているのだが、いきなりちょっと意外な言葉が浮かんできた。

「ピアノ」

ピアノ…?

思いがけないところから球が飛んできたという感じ。ピアノに関連して、過去の私が抱いている何らかの感情を癒せということらしい。最初は意味がわからなかったが、今回の「焦り」のニュアンスと「ピアノ」というキーワードを紐づけていったとき、だんだんと浮かび上がってくる情景があった。

忘れていたピアノへの感情

ほとんど忘れかけていたことだが、私は3歳から18歳まで毎週ピアノを習っていた。

15年という相当な時間をかけた事実があるにも関わらず、記憶はかなりあやふやだ。いまピアノが目の前にあっても「ねこふんじゃった」を弾けるかどうかすらあやしい。大人になってからはピアノは私の人生とはすっかりかけはなれた関係のないものという認識になっていた(夫も「あやちゃんとピアノは全くイメージが結びつかない」と言う)。

そんな状態だったから、ピアノというキーワードが意外だったのだ。

***

先述したが、ピアノを習いはじめたのは3歳の頃。私は5人きょうだいの末っ子で、兄や姉たちがみんなピアノを習っていたために、私も物心がついた頃には自動的にピアノのレッスンが組み込まれていたのだ(先生が自宅に来て一人ずつ順番に教えていく)。就学前の時期は好奇心もあって普通にドレミを楽しんでいた気がする。

ところが、小学校で別の先生に習いはじめたあたりの記憶になると、なんとなく重たい雰囲気が漂ってくる。

あ、これか、と思った。

小学生の私が、ピアノの先生の家の玄関ドアを開ける瞬間。そのシーンで、現在の私が感じている「焦り」に近い感覚があった。

やらなきゃいけないことを、やっていない。

なるほど「練習しなかった」ということか。

ここからピアノにまつわる記憶が芋づる式に思い出されてくる。

先生の失望が気まずい

ピアノというのは最もメジャーな習い事でありながら、割と努力を要する習い事という気がする。週一回一時間のレッスンだけでは足りなくて、基本的には家でもちゃんと自主練習しなければ上達しないものだと思う。

ピアノが好きで習っている人はもちろん家でも練習するのだろうし、家にピアノがなかったとしてもピアノが好きな人なら一時間のレッスンにかけて真剣にのぞむはずだ。

もともと私は「姉たちのついで」で習いはじめたに過ぎない。そのまま好きになれたらよかったのだが、残念ながらピアノ(というか音楽全般)は私の性質にハマらなかった。当然、自宅での自由時間の使い道としてピアノ練習の優先順位は上がらない。レッスンの30分前に慌ててパラパラ弾いて出かける、いつもそんな感じだった。

練習していないので当たり前だが、レッスンの現場では何とか時間をやり過ごすという感じになる。

私の右後ろに立つ先生。叱責されるわけではないが、先生の「失望」の雰囲気は背中ごしにひしひしと伝わってくるので、めちゃくちゃ気まずい。その気まずさに気を取られてレッスンにも集中できないので、せっかく習ったことも身についていかない。

あの気まずさを味わいたくないがために、たまに思い立って自主練習を頑張る週があったりもしたが、そんな消極的な動機の努力はもちろん長くは続かない。

ああ…もう明日か。

毎週毎週、ピアノレッスンの日が近づくと、うっすらとテンションが下がっていった。

練習しなきゃいけないのに、また今週もやらなかったな。

そんな自分は、怠惰な人間である。

小学生から高校生までこの自己否定ルーティンを続けていたということか…。そう思うと我ながらちょっと怖くなった。

トラウマと呼べるほどではない、緩やかで静かなネガティブ体験。だからこそ、無自覚でずっとスルーされてきたのだろうし、長い期間にわたって常態化してしまった。

インナーチャイルドとの対話

この傷を癒すことを意図して、当時の私に会いに行ってみた(インナーチャイルドワークの癒しについては過去のnoteで書いている)。

すると、インナーチャイルドである中学生と思しき私が出てきた。ピアノの先生の家から出てきて自転車で帰ろうとしているところ。

大人の私が彼女に尋ねる。「ねぇ、ピアノはどうして続けているの?」

中学生の私は「まあ、別にすごく嫌というわけではないし、いまは物理的に無理じゃないし」と答えた。「すごく嫌」とか「時間がない」とかは辞める理由になるけれど、そういうわけではないから、ということらしい。楽しいからとか弾きたい曲があるから、というポジティブな理由ではない。本人は言わなかったが、辞めることへの罪悪感を持っていたかもしれないし、優等生としてのプライドを守るべく怠惰な自分をどうにか克服しようとしていたのかもしれない。

さらに問いかけてみる。

「もしピアノを辞めたら、家で練習しなくてよくなるよ。毎週のレッスン前の憂鬱さを手放すことができたらけっこう素敵なんじゃない?その時間を楽しいことに使えるし」

すると一瞬、中学生の私の顔がパッと明るくなった。辞めるという選択肢がはじめて出現した瞬間だろうか。

「…じゃあ、辞めてもいいかどうか、ママにも聞いてみる」というので、当時の母を呼び出した。母の返答は「あらあ、せっかくなのにもったいないじゃない。去年の発表会のあの曲も素敵だったし…」とのこと(なんとも母らしいコメントだった)。

そこで中学生の私は黙ってしまったので、大人の私が代わりに母に伝える。「続けることを前提にしないで、あらためて本人に選択させてあげてよ。もう中学生だし」と…。

***

インナーチャイルドワークとしてはここまでで十分という感じがあった。当時の私がピアノにまつわるネガティブな感情に気づき、辞めるという選択肢もあることを自覚できさえすれば良かったのだと思う。

ワークを終えてみると、現在の私の「焦り」についてはだいぶ薄らいでいた。潜在意識に刷り込まれた自己否定の感情を少しは浄化することができたのだろうか。この仕組み、あらためて不思議だ。

辞め時を逸した後悔

このピアノにまつわる記憶が長年封印されていたのはなぜだったのだろうと考えてみた(レッスンを辞めたのが18歳のことだから、20年以上も放置していたことになる)。

それは、私にとってピアノを習っていたことは「なかったことにしたい出来事」、いわゆる「黒歴史」だからなのかもしれない。

自分の進む道は誰かに委ねず自分自身が納得して選びたい。私は学生時代からわりとそのことを強く意識していたように思う。ところが、ピアノの件は明らかにそのポリシーに反していた出来事である。自分の意志を省みることなく選択を放棄した結果、何年もズルズル惰性で続けてしまった。

特に後悔を感じるのは、何度かあった辞め時を逸した、ということだ。たとえば中学進学、高校進学のタイミングであればもっともらしい理由をつけて辞められたはずなのに、なんとなく勇気を出せなかった。春の焦りとともにこのピアノの記憶が蘇ったのは、もしかするとこの季節と「ピアノを辞め損なった後悔」がリンクしていたからかもしれない。

とはいえ、いま振り返ってみれば、ピアノの経験が完全に無駄だったわけでもないということにも気づく。

スキルは身につかなかったし、かけたお金や時間を考えると悲しい(先生にも親にも申し訳ない)が、ひとつ確かに言えるのは、ピアノで辞め時を逸してしまったという後悔があったからこそ、その後の人生においては「辞めること」への決断力が強みになっていたということだ。

仕事、恋愛、住む場所。たとえ「すごく嫌」ではなかったとしても、自分にとってベストの選択と言えるかどうかを省みる。違うとなれば修正を試みるし、辞めること、終わらせることも前向きに選択してきた。その勇気はいまの私を形づくってくれていると思う。

春の「焦り」が教えてくれたこと

春の焦燥感とは「それはあなたが本当に心からやりたいことですか」という問いかけでもある気がする。

そもそもやりたくないことをやろうとしているとしたら、いくら「やらなきゃ」と焦ったところで、やる気が出なくて当然だ。ピアノを習っていた頃の私も、41歳の私も、何かというとつい自分の怠惰な性格のせいにしていた。

でも、そんな自己否定でもう縛らなくていいのかもしれない。春ははじまりの季節であるとともに、前向きな意味での決別の季節でもある。やりたくないことについてはちゃんと決別できるタイミングだ。

やりたいと感じることだけをやってみて。
無垢な子どものように楽しんでみて。

今回、直感が教えてくれたのは、極めてシンプルなメッセージだった。

まさに、これこそいまの私に本当に必要なことだという実感がある。

鈍りきっていた「やりたい気持ち」センサーを磨いていこう。大人としての義務ではなく、「子どものように楽しむ」ことに集中していこう。あらためてそう心に決めることができた。

そんなわけでいま、いつもとは違う春の感触を味わうことができている。

焦りではない、軽やかな春の訪れだ。

***

今年も健気に咲き始めたスノーフレーク
私も生き物としての衝動を大切にしたい







この記事が参加している募集

新生活をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?