見出し画像

年末、思考の大掃除に精を出す

早いもので、今年もあと数日。

大掃除に勤しみつつ、振り返りモードの日々を送っている。

というか、振り返りモードはいまに限らず、だったかもしれない。

今年は自分の内面や魂の本質と向き合っている時間が相対的に多かったと思う。数年前からこれまでの価値観が大きく崩れてきて、新しい形に再構築されつつあることは確かだけど、いまだその新しい形を具体的には表現することができないでいる。絶賛、模索中。

久しぶりに友人に会ったりすると「なんかいつも美味しいもの食べてるよね」とよく言われる。その通り、美味しいものを食べることは実際に私の純粋な喜びだが(北杜は食のレパートリーがとにかく充実している)、内面がまだわりとカオスな状態なので、結果的に気軽なライフログとしてSNSに載せられる内容が食に偏ってしまっているのだ。

そんな中、半年前にこのnoteをはじめた。一人で過去を振り返りながら、内面と対峙しながら再構築に向かう私のプロセスを、少しずつではあるが外に出してみているところだ。

本当はもっと頻度を上げたかったし、プロセスと言ってもまだ過去のまとめの域を出ていないのだが、ひとまずはのんびりとでも続けられているということで、三日坊主がデフォルトの自分としてはOKかなとは思う。

前回の記事をアップしたのが先月の満月の日だったので、今回も満月のタイミングで更新することにした。前回からのこの一ヶ月、私が何に取り組んでたのかといえば、もっぱら「思考の大掃除」である。現在進行形の話だが、まずは記録しておきたい。


モヤモヤ、カムバック

子どもはこのたび生後五ヶ月になった。いまのところありがたいことに大きなトラブルもなく、生活リズムも整ってきている。

その一方で、私自身のメンタルが妙に不安定になることが多かった。産後のホルモンバランスがどうこうというよりは、単純に出産イベントの期間でペンディングになっていたモヤモヤがまた戻ってきましたよ、というのがしっくりくる。

夏にアップした出産後のnoteでは「子どもが産まれても、私の本質は変わらない」と書いているのだが…

変わるけど、変わらないでいい。この感覚は、いまの私にとって大切な拠りどころであり、静かな安心感につながっている気がする。

このときはポジティブな気持ちで書いているが、これは裏を返せば、本質が変わらない以上、私がはまりがちな落とし穴も一緒だということでもある。

前回のnoteで書いたように、私は二年前にスピリチュアルスクールでの学びの過程において、自分の内面に潜む多くのネガティブなマインドブロックを発見し、その都度、浄化してきた。このプロセスのおかげでいまの生活があるのは間違いない。

あの時も半年かけて頑張ってきれいにしたつもりだったけど、やっぱりまだまだ残っているようだった。自分の中に浄化されていないネガティブな感情や思い込みがある限り、同じような落とし穴にはまり続けてしまう。

こんな時、昔の私はお酒を飲んで酔っ払うことでとりあえずやり過ごしていた。あるいは仕事に没頭することで気づかないふりをしていた。しかし、もう私は「やり過ごしたところで、またいつか形を変えて発作のように繰り返す」ということを知ってしまっている。モヤモヤをとっつかまえて自分で浄化していかない限り、終わらない。

子どもと健やかに向き合いたい

いま、このマインドのお掃除を促してくれているのは、やっぱり子どもの存在だという気がする。無垢そのものの息子を毎日抱き上げながら、無垢ではない自分と無意識に比較しているのかもしれない。

彼の役割をたとえるなら「重曹」みたいなものだろうか。普段はスルーしがちな頑固な汚れをしっかり浮かび上がらせて、取れやすくしておきましたよ、と(リアルに家中の大掃除をしているところでもあり、まさに重曹にお世話になっているので)。お掃除しやすいように、わかりやすく強いモヤモヤを発生させてくれている感じだ。

子どもはかわいい。それは本当に。だからこそ、私自身も無垢な子どもと健やかに向き合いたい、と切実に感じるようになった。

そのために、いまこそ自分自身の大掃除に着手したい。彼がせっかくもたらしてくれている重曹効果を無駄にしたくない。ここで決着をつけたい。

そんなわけでここ最近は、子どものお世話に並行して自分の浄化を優先的に取り組んでいた。本当は山に数週間篭って修行したいくらいの気持ちだったが、さすがに現実的ではない。夫に相談して協力してもらい、定期的に一人になれる時間をとって、自然に身を置き(やっぱり主に滝)、自分の内面と向き合うようにしている。

「私は嫌われている」

モヤモヤが生じるシチュエーションにはいくつか種類があったが、最も顕著で困っていたのは「他人の些細な言動にやたら傷つくようになった」ということだ。

相手の表情や言葉尻を捉えて「この人、私のこときっと嫌いなんだろうな」と落ち込んだり、「こんなことを言って嫌われたはず」と自分の言動を後悔したり。気にしいなのは生来の性質もあるだろうが、今回はそのあとの自分のエネルギーがガクーンとわかりやすく落ち込むので無視できなくなっていた。

その奥をさらに探っていってみると、自分の中に浮かび上がってきたのが「嫌われたくない」という気持ちだった。つまり自分自身の中に「私は嫌われている」という自己否定のセルフイメージが存在していたのだ。

言葉にするとかなり典型的でシンプルなネガティビティだが、自分としては少し意外な感じがしていた。家庭では末っ子としてチヤホヤされながら育ったし、学校でいじめられたとか大きなトラウマ的な出来事は思い当たらず、人間関係でこじれたことはほとんど記憶に残っていなかったからだ。

過去のカウンセリングやセルフワークでもあまり出てこなかったパターン。でも、根っこの根っこには「うん、確かにあるぞ」と感じられた。

この自己否定が生まれたのはいつか、それはなぜだったのか、インナーチャイルドワークをしながら掘り出していく。自分が思っていたよりも根深いものだったようで、子ども時代の私にたくさん会いにいき、その都度、彼女の話を聞くというのを繰り返した。

小学校からは「周囲に嫌われないように動く」クセが身についていたようなので、そのほとんどが幼稚園より前の記憶だった。

自己否定を浄化する無条件の愛

なかでも印象的だったのが、おそらく2、3歳くらいと思われる出来事だ。

「家の前の道路に走って飛び出し、あわや車に轢かれそうになって、ドライバーのおじさんに窓から怒声を浴びせられる」という記憶が出てきた。

幼い私は家族に守られて過ごしていたのでそれまで知らない大人と対峙することもなく、はじめて自分に向けられた強い拒絶、敵意に震え上がっていた。車に轢かれそうになったというだけで十分怖かったのだが、さらに「何やってんだ!」というおじさんの怒声に驚いてフリーズしてしまっている。

「この記憶を浄化したい」と意図すると、シーンが切り替わり、すぐに母が駆け寄ってきた。若い母が泣きそうになりながら「本当にごめんなさいね」と謝り、泣きわめく幼い私を強く抱きしめている。

その時、瞑想状態になっている大人の私自身も、涙が止まらなくなった。

もしも私が当時の母の立場なら、同じような気持ちになっただろうなと思えた。子どものことが愛しくてどうしようもない、という感覚。親になって子どもと向き合ういまの私だからこそ、それは強く身に迫ってくるものがあったし、幼い私自身のことも、ひたすら愛しく感じることができたのだった。「私は嫌われている」? この純粋で可愛い女の子が愛されていないわけがないじゃないか、と確信できた。

自分自身に対して、無条件の愛を感じられたこと。それは自己否定の記憶を塗り替えるために、一番パワフルな浄化プロセスだった。

そして、このテーマはいまが癒されるべきベストタイミングだったのだ、とも思えた。

お掃除ライフはこれからも続く

「私は嘘つきだ」「私はだらしない」「私は冷めている」…他にもネガティブセルフイメージはたくさん出てきている。それらと紐付けられた記憶とひとつひとつ、向き合っていっているところだ。

それらのセルフイメージは単に無駄なものだったわけではないな、とも思えている。嫌いな自分に一生懸命抗おうとして頑張ったことが、これまでの半生をドライブしてくれていた側面も確かにあった。健気に奮闘した過去の私たち、お疲れさま、ありがとう、という気持ちだ。

一ヶ月前と比べてみるとモヤモヤが軽くなった実感があるし、おかげで感覚も鋭くなってきていると思う。

着手する前は面倒に感じるけど、やってしまうと案外面白い。そして終わるとスッキリする。それは大掃除と一緒かもしれない。

もちろん、浄化したぞと思っても実は取りきれていなかったということはよくあるし、きっとこのお掃除ライフはこれからも続いていく。大切なのは、プロセスを楽しんでいくことなのかなと思う。

来る2024年、自分がどんな活動をしているのかは正直わからない。だけど、いまよりもっと自分のことを好きになれている、そんな気はしている。

***

滝と向き合うことは
私の内面と向き合うこと


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?