昭和の暮らし:(4)台所、あるいはお勝手

”お勝手”と呼ばれていた台所について書く。お勝手には、ダイニング機能とキッチン機能があった。

お勝手は北向きで、北側にキッチン機能があった。
システムじゃないキッチンがタイルと木材で作ってあった。シンクと調理台は、今で言う昭和レトロっぽいタイルを張った台になっていた。
シンク下は両開きドアの収納になっていて、洗剤とか、酒や醤油の瓶が入っていた。

タイルを張った台は調理台の右の方までつながっていて、ガス台になっていた。
調理台からガス台の下は、引き出しが2つと、その下は木の引き戸がついた作り付けの2段か3段の戸棚になっていて、鍋とか調理器具が入っていた。

北向きのキッチンの目の前は小さな窓があった。窓の上の天井には棚が作り付けられていて、たまにしか使わない調理器具などが収められていた。

窓の外には垣根があって目隠しにしてあった。今ならその部分を車庫にできそうなぐらいの広さがあったけれど、砂利を敷いた何の用途もない空間になっていた。その空間をなにかに使っていたという記憶はない。
ちなみに車庫はなくて、お隣の敷地を借りて車を置いていた。

お勝手の話に戻り、シンクの前には有孔ボードが張ってあって、その穴に金具をつけて包丁やお玉などの器具を引っ掛けていた。ふきんは三本の棒が三方に水平に動く器具が設置されていて、乾きやすいようにしてあった。

ガス台のさらに右側に、冷蔵庫を置けるスペースがあった。冷蔵庫の上にはガス炊飯器を置いていた。
冷蔵庫はを開けると右上に製氷皿の入ったとても小さな部屋があって、氷菓子を入れるのがやっとの大きさの。冷蔵庫の扉内側ポケットにはカワイの肝油ドロップが入っていた。私の顔色が悪いと母が心配して常備していた。

実際には、顔色は特に問題なかったと思う。それより、手のひらの皮が向けることのほうが深刻だったが、手のひらのことは母は、まったく気にしていなかった。

冷蔵庫の奥には風呂場があり、木の戸が立ててあるだけだった。脱衣所もなかった。北側は以上のとおりで、お風呂は北東の角にあった。

東側は、風呂とお勝手口があって、その間に水屋(食器棚)を置いてあった。勝手口には風呂を焚くための薪の釜があった。風呂のことは後日改めて書く。

お勝手の西面には腰から上の高さから天井までの大きな戸棚が2つ造り付けてあって、その手前には我が家で唯一のドアがあった。お勝手からドアを隔てて玄関ホールがあった。お勝手の西側の戸棚の下の玄関側は、腰より下の下駄箱が作り付けになっていた。
玄関のことは後で書く。

お勝手の南は居間で、ガラス戸で仕切られていた。お勝手のドアと居間側の角のところに、いつも「鼻紙」の袋が置いてあった。鼻紙は、トイレの「チリ紙」としても使われる。長四角にカットされて長細いビニール袋に詰め込まれているやつだ。風邪をひいて青っ鼻を噛むときに使った。

台所の床は今で言うところのフローリングだけど、そんな素敵なものではなく、薄い木材が張ってあるだけだった。こどもたちは、その床を、よく水拭きをさせられていた。

お勝手の中央にはテーブルがあった。そのテーブルの記憶が薄い。居間のちゃぶ台と、記憶が混ざってしまっている。
テーブルの椅子のこともあまり記憶にないが、妹と私の椅子が決まっていた。青だか緑だか、ビニール張りの子供用の椅子だったように思う。
その自分たちの椅子の背もたれの後面には、おまけなどのシールを貼ることを許されていた。シールを貼っていいのは家の中でそこだけだった。
シールは、小学館の雑誌の付録とか、チューイングガムのおまけとかだった。