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あの地震から26年。かえるくんと、Mのこと。

Mはいま、どうしているのだろうか……と、この時期になると考えてしまう。

***

その夜はなぜだか寝付けなかった。
午前3時くらいまでねばったが、結局あきらめて本を読み始めた。

「ドンッ」という凄まじい衝撃でおしりを突き上げられた。そして停電。

瞬間、マンションの一階にダンプが突っ込んだのかと思った。その後もしばらく揺れていたのだろうが、覚えていない。空が白み、外でおばちゃんたちが騒ぎ始めるころになって、それが地震だったのだと分かった。

幸いにも、僕がいた新大阪に大きな被害はなかった。水道も無事。電気も午前中には復旧した。テレビをつけて唖然とした。神戸の街が倒壊し、燃えていた。

友人のMが訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。
「尼崎のうちのアパート、電気も水道もダメやねん。しばらく泊めてくれへん?」

そこからどのくらいの期間、Mがいたのか覚えていない。昼間はそれぞれの場所に出かけ、夜になると二人でビールを飲んで、こたつに入ったまま眠った。

そのころ夜中にテレビを見ていると、よく犠牲となった方たちの名前が映画のエンドクレジットのように下から上へと流れていた。Mは神戸の出身だったが、取り乱したふうではなかった。震災についての話になると吐き捨てるようにこう言っていた。

「その話はもううんざり。俺にとっては他人事や」

あいつはいっぱい、いっぱいだったのだろう。そういう態度で決壊寸前の心を防衛するしかなかったのだと、いまは分かる。

世界が真っ黒な雲で覆われた冬

震災から2ヶ月たっても、Mのアパートのライフラインは復旧していなかった。

ある朝、いつものようにテレビをつけると、東京の地下鉄駅が空から映し出されていた。

何台もの救急車が乱雑に停まり、担架を運ぶ隊員たちの周りにはたくさんの人がうずくまっていた。アナウンサーはパニック状態で、「何が起きたのか分かりません」「情報が錯綜しています」といった言葉を繰り返していた。僕とMは、こたつに入ったまま呆然と画面を眺め続けていた。

このまま世界が崩壊すると告げられても、「そりゃそうだよね」と受け入れただろうと思う。1995年の冬は、それほど暗く、重たく、終末的空気に満ちていた。

その年の5月、僕は大阪を離れた。

かえるくんは、何と闘っていたのか

それから5年が過ぎた2000年。ある映画の台詞から始まる一冊の短編集が発表された。

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神戸出身の村上春樹が、阪神・淡路大震災をテーマに描いた小品を集めた「神の子どもたちはみな踊る」。

このなかの「かえるくん、東京を救う」という物語が僕は気になって仕方なかった。

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冴えない中年男・片桐が、「かえるくん」とともに、地中に潜って「みみずくん」と闘うという、一見すると少しふざけた設定の寓話だ。

「ねえ、かえるさん。私は平凡な人間です」 
「かえるくん」とかえるくんは訂正した。でも片桐はそれを無視した。 

「私はとても平凡な人間です。いや、平凡以下です。頭もはげかけているし、おなかも出ているし、先月40歳になりました。扁平足で、健康診断では糖尿病の傾向もあると言われました。この前女と寝たのは三カ月も前です。それもプロが相手です。借金の取り立てに関しては都内で少しは認められていますが、だからといって誰にも尊敬はされない。職場でも私生活でも、私のことを好いてくれる人間は一人もいません。口べただし、人見知りするので、友だちを作ることも出来ません。運動神経はゼロで、音痴で、ちびで、包茎で、近眼です。乱視だって入ってます。ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなければならないのでしょう?」 

「片桐さん」とかえるくんは神妙な声で言った。「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」 (村上春樹「かえるくん、東京を救う」より)


地中で繋がる物語

なぜ神戸ではなく、東京が舞台なのか?
なぜここまで主人公がみじめで孤独なのか?
なぜかえるくんなのか?なぜみみずくんなのか……?

疑問を感じながらも、1月になるたびに僕はこの短編を読み返していた。

そしてあるとき、唐突に気付いた。この物語は、震災と地下鉄サリン事件を繋ぐものだということに。

みみずくんは、アンダーグラウンドで生きざるを得ない人たちの負のエネルギー(ルサンチマン)の象徴なのだ。ぶくぶくと太った負のエネルギーは、巨大地震のように世界をひっくり返し、地上を支配しようと企む。そのためには手段を選ばない。

それは「自分たちは目覚め、そして選ばれた人間だ」と信じ込み、「自分たちを認めない、くだらない連中を全員ポアせよ」と通勤ラッシュの地下鉄でサリンをまいたオウムの思想そのものだ。

世界は、誰のためにあるのか?

かえるくんのこの言葉は、そうしたオウムの狂気の対極に位置する。

「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」 

この世界は決して、「目覚め、選ばれた」と盲信する「特別な誰か」のためにあるのではない。

「あなたのような」人たちのためにこそ、この世界はある。何の取り柄も、尊敬されることもなく、それでも自分の人生を淡々と生きている、カエルのように醜い片桐のような「普通の人たち」のためにこそ地球は回っているし、これからも回し続けなければならない。ーそう、かえるくんは言っている。

僕たちは、「115人戦死した」で片付けられる存在なのかもしれない。6000人以上が亡くなり、深夜のテレビでエンドクレジットのように流れては消えていくだけの存在かもしれない。コロナの「犠牲者」として括られる200万人のなかのひとりにすぎないのかも知れない。

けれど、そんな僕たちのためにこそ、この世界はあるのだ。

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誰もが「みみずくん」になり得る

ただ、ここで忘れてはならないことがある。みみずくんを生んでしまうのも、僕たちだということだ。僕たちも、みみずくんになってしまう可能性があるし、みみずくん側の人間になる危険性もある。負のエネルギーは誰もが抱えているし、それが肥大化するのも特殊なことではない。

負のエネルギーにどっぷりはまり、被害者的になっているときには、「世のなかは腐っている」とか「一部の支配者が世界をコントロールしている」といった陰謀論的な話に乗っ取られやすい。さらに、そうした話とセットで語られる「間違った世の中をひっくり返す」というような革命的なヒロイズムに洗脳されやすいのだ。

短編集の背表紙には、こんな一文が記してある。

大地は裂けた。神は、いないのかもしれない。でも、おそらく、あの震災のずっと前から、ぼくたちは内なる廃墟を抱えていた――。

***

僕が大阪を離れてしばらくして、Mから電話があった。空き巣に入られて、働いてためた500万円近くをそっくり盗まれたと言って、笑っていた。笑うしかなかったのだろう。

その電話から数週間後、Mは僕が暮らす田舎にやってきた。少しでも気分が変ればと思って、僕は彼をカルスト台地など悠大な景色のなかに連れ出した。夜は飲みに出かけた。一緒に思いっきり歌って騒ごうと思っていたのだ。けれど彼はずっと俯いたままだった。バーのカウンターでため息ばかりついていた。僕の部屋に一泊し、ほぼ無言のまま帰っていった。

その後一度だけ、こちらから電話をした。僕の話に「ああ」とか「わかってる」とか鬱陶しそうな声で返し、突然「じゃあな」といってMは乱暴に電話を切った。

それ以降、電話を掛けてもいつも留守電だった。そして連絡が取れなくなった。彼がいまどこにいるのか、生きているのかさえ分からない。

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