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【創作小説】扇形家奇譚「泡目(あぶくめ)」

ある日の真夜中。

私は、トイレに行きたくて目が覚めた。
普通に部屋からトイレに行き、帰り道。
静かな廊下をなるべく足音を立てないように歩いていると、真っ暗な台所から、ふつふつと、何か音が聞こえる。
誰かいるのかな。
特に何も考えず、台所に足を入れる。ぱちりと電気も点けた。誰もいない。コンロの上に鍋があるのが目に入る。おでんなんかを入れる古く茶色い土鍋。ふつふつという音は、そこからだ。
何か沸騰しているような、煮込んでいるような、そんな音。だけど、コンロに火は点いていない。何も沸きようがない。
私は何も考えず、蓋のされていない鍋をひょいと覗き込んだ。
「あーー」
目、だった。目玉。
鍋底にびっしりと、小さな人間の目玉が入っている。鍋底から生えているように、全てくっついていた。硝子細工のように美しい表面で、茶色い瞳のものがほとんど。でも、白い部分は皆真っ赤に充血している。
水も鍋の半分ほど入っていた。水が沸騰する時の泡のように、ぷくりと、いくつかの目玉が水面に浮いてくる。訳が分からない光景に、私は声も出せず、見入ってしまう。ふつふつという音が、何か違う音に変わってきた。
「……な……たな……」
何か言っているような。私は少し鍋を覗き込むように近付く。後少しで分かりそう。
「……たな……たな……」
全ての目玉が一斉に、私の方を向いた。
「み た な」
「!」
瞬間、私の視界が真っ暗になる。
突然のこと過ぎて固まっていると
「ーー薫。私だよ、勾楼さ。動いていけないよ」
耳元で囁く声がした。私は頷いた。勾楼だ。お祖父ちゃんの持つ勾玉の付喪神。どうやら、彼が自分の手で私の目を塞いでいるみたいだ。いつの間に来たんだろう。
同時に、カタリと、何か音がする。
途端に、何の音も聞こえなくなった。
目隠しの手はそのままに、私は手を引かれて台所を出る。
出たところで、私は勾楼に抱えられて部屋に戻った。歩ける、と言ったが、勾楼は聞かなかった。部屋に戻り、電気を点けて、私をベッドに下ろす。
「勾楼」
勾楼は私の隣に腰を下ろす。じっと私を見た。黒くさらさらとした髪が揺れる。
「……大丈夫みたいだね」
「目が……」
私の言葉を聞きながら、勾楼は呆れたように息を吐き出す。
「本っ当に危なっかしいお嬢さんだねぇ、お前さんって子は」
「え」
くしゃりと、勾楼が私の頭を撫でる。
「あれ、何……?」
「……何だろうねェ、無理やりあてはめるなら、物の怪ってとこかね」
勾楼が私の頭から手を離し、自分の顎に当てる。
「物の怪」
「お前さん、この家であの土鍋今まで見たことあるかい?」
「……ない」
そう。今の今まであの鍋は我が家のものだと思い込んでいた。でも違う。あんな土鍋は家には、無い。身体の中心から、ぞわりとする感覚が滲んで行く。
「鍋の物の怪?」
「いンや?本体は恐らくあの目の方さね」
「見たな、って言ってたけど、どうなるの?」
「安心おし。どうにかなる前に、間に合ったようだからね」
少し、考えた。
「目隠ししてくれたこと?」
勾楼は一つ頷く。
「私には、『見ろ、見ろ』って聞こえてたからね。逆のことをしたまでさ。正直ちょいと焦ってたからね、とっさに薫の目を塞いで、鍋に蓋をしてやったんだよ」
「蓋?」
「そう。これは家にある普通の鍋の蓋さ」
「鍋は?」
聞くと、勾楼は部屋のドアをちらりと見る。ドアを、というより、ドアの向こうを見ているような、伺っているような様子だった。
「ーー消えたよ」
「何で急に台所に出たの?」
「さてね。ああいう手合いには、人間に分かる道理も思考もないもんさ。通り雨に遭ったような話だよ」
随分な通り雨だ。何とも言えずにいると、勾楼が着物の懐から、自分の本体である勾玉を取り出した。翡翠で出来ていて、首に掛けられる長さの赤い紐を通してあるその勾玉は、いつもはお祖父ちゃんの部屋にある物。お守りとして使われていたらしい勾玉は、この家でも同じ扱いだ。
「どうしたの?」
「一晩、これを首から掛けときな。消えたとはいえ用心さ」
「良いの?」
「嫌なら言わないよ」
笑う勾楼に勾玉を掛けてもらう。その勾玉を手に取り、眺める。優しい翡翠の色も、丸く手触りが良い感触も、私は好きだ。
「鑑賞してる暇ないだろ?明日も学校じゃないかい」
「うん」
照れ隠しでそっぽを向いている勾楼に答えて、私は布団に入り直す。
「もう出ないかな、あの目」
「見つけちまったら私を呼びな。ーーそうだね、薫」
横になった私の枕元に腰掛けて、勾楼が見下してくる。
「何?」
「変なモノを見つけちまったり、気になることがあったらね、一人で見に行ったり確認するのはもうお止し。私か、誰か信用出来る人間を直ぐ呼びな。……約束出来るかい?」
私は勾楼を見上げた。いつになく優しい目をしていて、ちょっと泣きそうになった。
「分かった。約束する」
言うと、勾楼は満足そうに笑った。
「お前さんは本当に危なっかしいからね。こっちの身が持たないよ」
「私も別に好きで見つける訳じゃないよ」
向こうからくるもの、私にはどうしようもない。勾楼はそんな私を見、やがて笑い出した。
笑うとこじゃない。
「そうさね。悪かったよ。今夜は私が見張っておいてあげるからさ、ゆっくりおやすみよ」
勾楼が立ち上がり、電気を消す。
「ありがとう」
暗がりの中、勾楼が応えるように片手を上げる。
その晩は、もう途中で起きることもなく、朝まで眠ることが出来た。

次の日の朝。
誰より早く、勾楼と台所まで確認に行ったけど、やはりあの土鍋は跡形もなく消えていて、どこを探しても見つからなかった。コンロの上には、鍋の蓋だけが乗っていたのである。

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