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赤ん坊の出現で人生は変化する

ベビーカーや抱っこ紐の中に収まり、バスや電車で見かける赤ちゃん。その小さい体の中に親のDNAを引き継いで、親に連れ回されている赤ちゃんたち。TVコマーシャルで見かけるような可愛い子は稀有であるが、頭が大きいそのバランスの悪さゆえの可愛さは確かにある。

とはいえ、今の世の中の風潮として子連れは動きにくく、教育費は膨大であり、子供を欲しがらない人々は着実に増えている。

結婚して子供を持つことが当たり前の時代は終わった。
私の音楽仲間にシングルは多いが、再婚を繰り返す人、結婚して子供がいない人、子供いるけど離婚してシングルマザーの人も混じって、本当にさまざまである。子供がいるといないとでは自由度が違うのは確かだ。

私は結婚当初は子供がいらないと思っていて、相方もそんな感じだったが、しばらくして彼は子供がいたらいいな、と言い出した。
話が違う。
義母とは相性が良く、仲良しだったが、唯一困ったのがクリスチャンの義母が事あるごとに子供のいる素晴らしさを説くことだった。素晴らしい体験だから産めるならば産むべきだし、私も孫が見たいと懇願された。

私はアンサンブル活動が軌道に乗り海外の仕事も出てきた頃で、新しくアー写撮ろうと盛り上がっていたので、赤ん坊のことは真剣に考えずにいた。
そんなある日、妊娠が発覚した。
新潟の仕事の帰りであった。
新潟はいつも飲み食い付きの楽しい仕事だったが酒を飲むと珍しく胃がムカムカするので、仕事帰り、電車から降りて病院に駆け込んだ。
生理が遅れていることを思い出し、一応産婦人科で診察を受けてみた。
すると医者に「おめでたです」と言われた。
「えー!どうしようどうしよう」と狼狽え、看護師さんに一喝された。
医師には、妊婦がハイヒールを履いている事を怒られ、首をすくめ、家に帰って連れ合いに報告すると彼に「マジですか。ひゃあ」と言われた。
私も思った。 

マジですか。

義母だけは、嬉し涙を流しながら私に向かって合掌してくれた。喜びが尋常ではない。
義母は良い人であり人間的に優れている。それで「産んでみよう」と決意した。赤ん坊が産まれるのではなく、自分が主体で「産む」のだ。

産んでやろうじゃないか!

つわりは本当にキツく、お腹が大きくなっても収まらず、いつもトイレを探していて。仕事であちこち動くので、それぞれの駅トイレの位置を調べ、電車では何駅かごとにおえっとなってトイレに飛び込んでいた。小さな葡萄パンを噛み締めると吐き気が収まるので、楽譜と一緒に葡萄パンの袋をカバンに詰め込んだ。
音楽仲間から「葡萄パンの女」と呼ばれた。

産む直前のぎりぎりまで仕事を入れた。
ひどい風邪引きでヘビースモーカーの夫婦とアンサンブルを組んでコンサートの練習をしていたら咳が止まらなくなり、実家に駆け込んで注射を何本も打たれた。
風邪がおさまった頃に、故郷の恩師に頼まれ音大受験生を二名レッスンしていた。
一人は合格基準の女子で、こちらは良いとして
もう一人は受験間近の高3のクリスマスに音大志望とやって来た声楽の男子高校生。
彼は「テレビで歌う人になりたい」とアホのようなことを言い、ピアノを弾いたことがないという。学力は高く、剣道と囲碁でそれなりに成果を残している。声と顔は良い。
歌い手で姿がいいのはプラスになる。タレント性があればなんとかなるかもだ。
面白い。やってみよう!と引き受けることに決め、1日おき6時間レッスンをした。

お腹の中で赤ん坊が暴れていた。
ピアノの音に連動してグニューグニューとお腹が変形した。
当然ながらその年彼は落ちた。ピアノはなんとかなったが楽譜が読めないため新曲視唱はバクチ、楽典も付け焼き刃。(翌年芸大に合格した)

そして私は男の子を産んだ。
子宮口が開かないため時間がかかったが、最終的には安産で、夫が愛車の洗車に行ってる間に生まれた。

その日から、この小さな生き物に振り回されることになる。
生まれた途端に、私のメスとしての本能が目覚めた。計算外。
可愛くてたまらないのだ。完璧な親バカになってしまった。母乳で育てたのだが、母乳が足りているか分からず併用してミルクも飲ませて太らせてしまった。
夫は顔が小さい方なのだが、赤ん坊は信じ難いほど小さく、見比べると夫は化け物に見えた。

子供を産んで5ヶ月仕事を休み、つききりでいた。
息子にふんわりかけられた小さな布団の動物のアップリケ、溶けそうな可愛い肌着を見るだけで涙が出た。それは、可愛いだけの涙ではなく、この子が成長して可愛さから脱却することへの悲しみだった。好きで好きでたまらない、と言うのはなんと哀しいのだろう。
今思うと産後の鬱でもあったかもしれない。そのうち毎夜、自分が死ぬ夢を見始めた。
赤ん坊が死ぬ夢も見る。息子が親戚の叔母たちに食われてしまい、足の骨しか残っていないと言われて号泣しながら目覚めた日もあった。
母乳とおむつ替えの時間を全てノートに記入して赤ん坊の状態を観察せずにはいられず、眠りは浅く、やがて私の足や手には皮膚疾患の症状が現れた。夫の仕事が最高潮に忙しい時で、ほとんど家に居なかった。
二人疲れていた。

自分の中で、赤ランプが明滅していた。これはいかん!

大学卒業以来ずっとお世話になっている楽器メーカーの先輩に電話した。「何か仕事ありますか?」
事務方の仕事ならあると言うので、私は演奏や教える仕事ではなくその仕事を受け、ベビーシッター会社を調べた。
シッターさんを頼むと私のギャラ分は無くなる。でもそれで良い、と思った。

可愛い我が子を他人に任せ、もしも何かあったらという思いもあったが、今のこの思いを放置すふと、将来確実に子供を縛る。
そしてこの子が成長した時に、私がこの子の足枷になってはいけない、と決意した。
この後、私は1歳になるやならずの息子を置いて、仲間と海外の演奏ツアーに出た。半月のツアー。
夫の両親に、赤ん坊と夫の世話をお願いして30万を渡した。自分の手取りギャラ分。

マレーシアだった。、クアラルンプール、ジョホール・バル、イポー、クアンタン。
「ママー」と泣く我が子を義母に手渡し、タクシーにスーツケースを押し込んで乗り込んだ。振り返ると息子は手を伸ばして泣き叫んでおり、私もボロボロ泣いた。まだ断乳してなかった。
ツアー中のホテルで毎晩息子の写真を見て泣きながら母乳を搾ってトイレに捨てた。
しかし、マラッカ海峡に張り出したラウンジで朝一人コーヒーを飲んで、とても解放された気分だったのも事実だ。母でも妻でも嫁でもない自分がここにいる。コンサートは毎回立ち見が出るほど盛況だったし、マレーシアのスタッフも良い人ばかりで楽しかった。

半月後戻ると、息子は私を見て義母の後ろに逃げた。この半月で歩くことができるようになっていた。ショックだったが、一晩抱きしめて謝ったら、私を認識してくれた。こいついい奴だ。

自分の仕事をしながら子育てをみんな当たり前にやっているし、今は夫の育休などで負担をそれほど感じない人もいるかもしれない。
それにしてもひとりの人間を見守り、責任を持つと言うことは、その前に自分の責任も持つと言うこと。
他人に依存していては何も出来ないし、他人の協力も必要だ。
そして子供は自分の思い通りにはならない。

クラシック畑で作曲家になる予定だった息子は、定職につかずロックミュージシャンになった。
私と畑違いの音楽の世界。彼も全国ツアーやライブの日々をおくっている。

ライブを見に行き、私の世界も広がって行く。

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