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戦いの音楽史 逆境を越え世界を制した20世紀ポップスの物語を読んで学びになったもの箇条書き

アメリカの繁栄のスタートは奴隷を使ったプランテーション、大帝国となるイギリスの三角貿易の一部だったから栄えた
アメリカに渡った黒人奴隷たちが辛さを紛らわせるために歌った労働歌がブルースの源となった
奴隷解放宣言のあと1860年代では白人が黒人のモノマネをしてそれを面白がるショーがあった
解放宣言後徐々に黒人も金銭的余裕ができてきて酒場とかにいくようになり、その酒場のステージで人種差別などの行き場のない怒りや欲望を以前行ってた労働歌とジョイントしてブルースが生まれた
ブルースから生まれて派生して成長していった音楽の歴史においての第一のキーパーソンはロバートジョンソン(1911−1938)というめちゃギターがうまい若い黒人男性
マディウォーターズがブルースにエレキギターを持ち込んだバンドスタイルで田舎町ミシシッピから大都市シカゴに進出したことがロックの源流
白人農園主に強制的にクリスチャンにさせられた黒人は文字を読めなかったので、毎週歌っていた賛美歌を自分達なりに歌詞をアレンジした。これがゴスペルの始まり
黒人たちは陰鬱なブルースと希望あふれるゴスペルをシカゴで歌っていた
ゴスペルを俗っぽいものにしたのがソウル 賛美歌をセックスの歌にしたりした
プレスリーやビートルズに影響を与えたレイチャールズはソウル初期の著名人
アメリカにおけるヨーロッパ移民音楽とアメリカの土着音楽が混ざったのがフォーク
レッドベリー(1888−1949)はそれまで口伝であったフォーク、ゴスペル、ブルーズの曲全てを覚えて即興で演奏できる人間ジュークボックスであり、後に白人のアランローマックスが依頼してそれらを録音できたことで最初期のアメリカ音楽を記録に残すことができ、後世に多大な影響を与えた
アランはそれまで口伝だったアメリカの音楽を録音すると思い立った人物で、こいつがいなかったら音楽の発展は遅れていたかも
1929年の世界恐慌を機に行ったニューディール政策は作家、劇場、音楽をなど文化的なアメリカのアイデンティティを保持発展させるような政策も実施した→音楽の分野ではアメリカの色んな地方に研究者や音楽愛好家を派遣してアーカイブを残したりしてた
アパラチア方面に入植したイギリス移民が楽しんでいた音楽がカントリーとなる
ブルースを歌っていた酒場に白人が録音機材を持って録音しレコードを発売したが、それらはレイスミュージックと蔑まれ主に黒人同士で楽しまれていた
テレビが普及した1940年代を境に需要が下がったラジオでレイスミュージックが流れるようになり白人もレイスミュージックを楽しむ人が増えR&Bという名前に変わって一般的になった

その頃日本では、、、、、、
日本では明治政府が西洋に追いつこうと学校教育制度を見習うとともに音楽の教育法も西洋人から指導をもらうことになり、西洋的な旋律と日本語歌詞を織り交ぜた文部省唱歌というものができた。(仰げば尊しは文部省唱歌)。これがJPOPやJROCKの第一歩であるだろう
それまでの日本の歌は自然発生的に生まれた歌が中心であった
作業中などに歌う労作歌、神事などで歌う神事歌、芸人などが歌う芸事歌などが商人や水夫や参勤交代した藩士などを伝って伝播していった
無伴奏や手拍子のみで歌われていたこれらが都市部につたわると三味線などで伴奏がつき「はやり歌」へ進化した
ラジオが普及すると地方の民謡が流れるようになり、それに感化された詩人作曲家が西洋音楽への傾倒を反省し、日本を感じる新しい民謡をつくる運動が盛んになった
このころはやり歌はNHKによって歌謡と称されるようになり歌謡曲という言葉が定着した
1937年、おそらく初めて民謡とジャズ要素を組み合わせた音楽が元オーケストラ奏者で日本コロムビア所属作曲家の服部良一によってつくられた
これらが発展して今の日本的なポップス、日本的なロックがあるだろう

R&Bがラジオで聴けるようになりR&Bはかっこいいと白人も思うようになったが、親世代はそういうのを聴かせたくないので白人が黒人のモノマネをして歌ったR&Bを白人は聴いていた
ミシシッピ生まれテネシー育ちのプレスリーはモノマネR&Bは偽物だとして本気でR&Bをやった白人
黒人がやってることはカッコいいんだと証明するため黒人が使ってたポマードを使ってリーゼントにするなどし、その新しいスタイルに若者は熱狂した
ちょうどテレビが普及したころで、プレスリーはテレビで脚光を浴びたが、腰を振ったりするパフォーマンスが下品だと大人たちの反感を買った
ロックとロールという言葉は黒人コミュニティではセックスやダンスを意味していて、ロックンロールというタイトルで白人向けにR&Bを流していたラジオ番組の影響で、白人が演奏するR&Bもロックンロールということになっていった。
黒人音楽を嘲笑する時代から尊敬する時代になった
フィルスペクターというプロデューサーの時代がくる
フィルスペクターはそれまで音楽においてそのままの音が好まれていた時代に音を加工することをして音楽を売った最初の人間といっても大袈裟でない

その頃日本では、、、、、
戦前の日本ではジャズも人気だった
関東大震災で関東の人間が関西へ移動した時、その移住先の神戸がジャズの中心地になった
戦中に軍楽隊バンドでマーチやクラシックをやってたものが戦後ジャズに転向し、ジャズ学校を設立したり、日本語歌詞英語歌詞半々でジャズ曲をカバーしたりとジャズは人気だった
その後も輸入音楽は日本語英語半々の歌詞でカバーされる期間が続く

50年代、黒人のブルースを録音した白人アランローマックスがイギリスでブルースを流すラジオ番組が始まりイギリス人にも黒人音楽文化が広まる
港町で最新のアメリカ音楽がいち早く手に入れやすいリヴァプール出身のビートルズが60年に生まれ瞬く間に大ヒットした
それまではイギリスの曲はアメリカでは売れないのが通説だった
ビートルズは作詞作曲も自分でやったポップスターだったのでこれ以降作詞作曲するミュージシャンが増えた→編曲やミキシングやプロデュースは別だけど
ビートルズを皮切りにイギリスのバンドがたくさんアメリカに進出した
ビートルズはプロデューサーに矯正されるまでは革ジャンリーゼントだった
デトロイトからうまれたモータウンは黒人経営者で音楽的成功を生み、黒人のアメリカンドリームの象徴となった
公民権運動や反戦運動が盛り上がり、プロテストソングとしての側面をもつフォークが流行し、その中心にいたのがボブディランだった
ボブディランを聴いていたビートルズはアメリカツアーで彼に会ったが、歌詞が面白くないと言われたことに感化されそれまでラブソングばかりだった歌詞を見直した
またビートルズに会ったボブディランはフォークからロック路線になっていき、プロテスト的な要素がロックに定着していった
66年最初で最後の日本公演が組み込まれていたツアー後、あまりの忙しさに疲れライブ活動を休止し、アルバム制作に時間をかけるようになって、ライブでの実演を考慮しなくていいサイケな曲を作るようになった
このころLSDを覚え、その神秘体験を音にしたものをサイケデリックロックと呼ぶようになった
その後それまではシングル曲と数合わせ曲で構成するのが一般的だったアルバムを、一つのテーマでつくるというコンセプトアルバムを初めてつくった→音楽をヒット曲の他に名盤という括りで評価できるようになった→そのアルバムで何を伝えたいかをジャケットのアートワークで組み込む気運が高まり、音楽活動にも目で見る芸術の側面が加わることになった
アメリカの情勢は自由や解放路線になりヒッピー文化が起こり、解放を求めて麻薬と密接になったものが増えたためサイケが流行した
当時はLSDは使用禁止物ではなかったのでたくさんの人間が服用した副作用で命を落とし、その中には才能あるミュージシャンもいた
ライブのたびにLSDを客に配布していたり、自分の豪邸を出入り自由にしていたり、ライブ会場に客が良い音でライブの音を録音できるようにと録音スペースをわざわざ設けたりするような解放的なバンドが存在した→なんか地下アイドルっぽい
ヒッピー文化の集大成がヒッピーの聖地サンフランシスコで行われたウッドストックフェスティバル→3日間で40万人集客
ウッドストックの成功に感化されたローリングストーンズがカリフォルニアでフリーコンサートをするが、大混乱になり半グレ警備員が客を一人殺してしまう事件がおき、このヒッピー文化は鎮火していく
60年代にジミヘンがギターをただのバンドの1パートだったものを花形にまで押し上げた
またロックに即興要素が組み込まれギターの技巧が注目を浴びるようになった

その頃日本では、、、、
ビートルズが来日したことで日本でもグループで音楽活動をするのが流行った
しかしビートルズのように自分で作詞作曲したものはライブハウスでしかできず、レコードにするとなると、レコード会社の意向で作詞家作曲家に書かせた曲を演奏したものを世に出すしか選択肢がなかった

ビートルズやジミヘンがいなくなった70年代、ヤードバーズ出身の技巧のあるギタリストが活躍し、その中の一人ジミーペイジがレッドツェッペリンを結成しハードロックが誕生する
その後ブラックサバスが弦を緩めより重厚感のあるサウンドでバンドサウンドを奏でこれがヘヴィメタルの発端となり、このあとのオルタナティブロックに影響を与える
サイケが派生しキングクリムゾンなどのプログレが誕生し、ここらへんから色んな音を音楽に取り込もうとする新しい先進的な音楽をつくる考えを持つことが普通になってきた
ドラム以外の楽器も打楽器のように弾くファンクがソウルから生まれた
70年代西ドイツで電子音楽が流行る
73年にニューヨークにCBGBというオリジナル曲演奏すれば誰でもライブできるライブハウスができ、そこで技巧ではなく精神性を大事にしたバンドがたくさん生まれこれがパンクロックの先駆けとなった
70年代はオイルショックやニクソンショックで経済が疲弊している国が多く、その疲弊感に対して攻撃的な側面を持つパンクロックは相性が良かった
70年代後半ファンクから派生したディスコが爆発的にブームになり、ローリングストーンズやキッスがあやかってディスコ風の曲をつくるとロックファンは怒り、大量のディスコのレコードをメジャーリーグの球場で数万人の前で爆破する事件を起こした。これは流行してるブラックミュージックに対する白人の不満の顕在化を象徴する事件となった

その頃日本では、、、、、、、
70年代やっと自作自演で音楽ができるようになった日本では、ロックは日本語に合わないから英語で歌えという派閥と、ロックも自分たちの言語でないと意味がないという派閥が生まれる。前者が内田裕也で後者が細野晴臣
71年にはっぴぃえんどが日本語ロックの風街ろまんを出し成果を収めたことでこの論争にひとつの決着を迎えることになった
その後73年にキャロルが日本語英語織り交ぜた歌でヒット曲を出し、日本語ロック論争は過去のものとなった
このはっぴいえんど周辺の音楽をニューミュージックと表現するようになり大衆に広がり、徐々に自作自演のニューミュージックと作詞家作曲家提供の歌謡曲の境界が曖昧になってきた

パンクの精神がアメリカのアンダーグラウンドに根付き、非商業的なロックをオルタナティブロックと称すようになった
メガヒット型の大量消費的な商業的音楽の流行に疲れた若者がアングラで非商業的なオルタナを大学ローカルのラジオで聴き合っていた
81年に24時間MVを流すMTVが開局し、今までライブ映像とレコーディング映像の組み合わせが主だったMVを演出の凝ったMVにしようとする動きが生まれ、その筆頭格がマイケルジャクソンである。また82年にはCD生産の技術が誕生した
MVが主流になってくると歌手は美男美女ばかりになっていき、それが気に食わない層がオルタナ、ヒップホップに進んでいった
80年代はメタルが商業的音楽でオルタナやヒップホップがアングラ音楽だった→いまの世界では逆な気がする
ニルヴァーナはオルタナをメジャー音楽にしようと行動し実際に打破したが、オルタナがMTVなどで脚光を浴びるようになり、自分が敵だと思ってたものに自分がなってしまった感覚に陥り精神が不安定になる
派手な格好のメタルがLAメタル、ジーパンに黒Tがイギリスのスラッシュメタル?

その頃日本では、、、、、、、
80年代はYMOがドイツのクラフトワークに影響を受け電子音楽を使って白人からみた典型的なアジア人を表現するかたちを音楽に落とし込みヒットした
テクノポップが流行しお決まりのように歌謡化しテクノ歌謡が生まれた
アングラではイカ天というバンドの勝ち抜きオーディション番組の影響でバンドブームが起きた→アメリカのCBGBみたい

70年代にお金を稼ぐために黒人がニューヨークに移住し、白人がそれを避けるように郊外へ移り住むと、ニューヨークの周辺が不況で失業した人間しか残っていない地域になり治安がひどく悪くなった(例:ニューヨークブロンクス)
その当時の黒人の間での流行はディスコであったが貧困黒人はディスコクラブにいけず、公園にアンプとターンテーブルを持って電力を盗んで音楽を流して盛り上がるのが娯楽だった。これをブロックパーティーとよぶ
地区ごとに縄張りをもち、DJを3人ぐらいで回して楽しむシステム
そのうちクールハークというジャマイカ出身のDJがターンテーブルを2台使って、音楽が流れない時間を作らないように曲を繋いでDJするようになった
ギャングのボスで人望があり、配下が多かったアフリカバンバータがこれから揉め事が起きたら暴力ではなくブロックパーティでのダンスやラップでバトルして解決しろと指示したことが発端で、ヒップホップ文化にダンスやラップが根付いた
ラッパーは今やヒップホップバトルの主役のようになっているが、黎明期ではダンサーとDJが主役でMCで盛り上げ役であったラッパーはサポート役だった
黎明期のヒップホップのパーティは政治的で攻撃的なものではなくブロンクスの日常ののどかなものだった
グランドマスターフラッシュという人物がユニットを組んでメッセージ性の強い曲を出したことでヒップホップが攻撃的な性格を帯びた今の形のようになっていった
80年代半ばになると安価にサンプラーが手に入るようになりサンプラーで既存曲をコラージュしたものを使うのがトレンドになる
DJが使うサンプラーはAKAIなど日本メーカーのものが多かったが、著作権法が厳しい日本ではあからさまに既存曲を使えることはあまりなくあまりサンプラーが活躍できなかったので、日本の製品が日本では流行らず海外で流行るという状態ができた
ロサンゼルス暴動を機に西海岸でも黒人のメッセージを載せやすいヒップホップが流行し、さらにより過激なメッセージ性をもつギャングスタラップが生まれた
このころ過激表現が含まれる音楽CDに貼るペアレンタルアドバイザリーステッカーが作られた
東海岸西海岸でヒップホップの抗争が起き、何者かにラッパーが殺害される事件がおきるほどのバチバチ具合になった

その頃日本では、、、、、、
90年までは音楽の流行はレコード屋やライブハウスの多かった新宿が発信地だったが、外資系のCDショップやパルコが進出した渋谷に若者が移り、音楽の発信地が渋谷に変わった
80年代の終わり洋楽専門ラジオ局JWAVEが日本のポップスも取り入れるようにシフトし、JWAVEが取り上げる日本のポップスは一味違うと歌謡曲との差別化を図るため、歌謡曲をJPOPと表現した
流行歌→歌謡曲→JPOPという名称の変化

1887年の蓄音機とレコードの登場まで、音楽は二度と同じ演奏を聴けるものではなかったので、音楽はその場限りの娯楽でしかなかった
マイクが発明されささやき声ややわらかい声で歌った歌をレコードに刻めるようになった
1898年磁気蓄音機が発明されカセットテープに音楽を刻めるようなり、レコード再生機を持っていない一般人も気軽にラジオやテレビの音楽を録音して再生できるようになり、1979年のウォークマンの登場でいつでもどこでも音楽が聴けるようになった
1982年CDがうまれ、CDの生産国は日本メーカーが多かった
しかしCDは音をデジタル化してその信号を読み取って音楽を聴く仕組みなので音質が良くなかった
90年代MP3データを使えばコンピューターで音楽を聴けるようになり、ナップスターという音楽ファイル倉庫のようなものがつくられた
レコード協会がナップスターを提訴しナップスターは破産した
レコード会社とナップスターの抗争のように、ラジオ黎明期もラジオ局と作詞家作曲家協会が生演奏放送時の音楽使用料に関して揉めた
2003年にiTunesが登場し合法的な音楽のデジタル販売が成果をあげた
2005年YouTube開始、2006年ニコニコ動画開始で違法アップロードが加速
かつてはレコーディングには録音、編集、ミキシング、マスタリング作業が必要でこの設備を整えるには億単位の資金が必要だったが、DAWが発明されパソコン一つでこの作業ができるようになった
安価で質の良い機材が増え、プロアマの境界があいまいになった
サブスクやストリーミングで聴くようになるとアルバム単位でなく曲単位で音楽を聴くようになり、ミュージシャンも作家性を重視しなくなってくる
ビートルズがコンセプトアルバムを打ち出して50年ぶりに音楽が曲単位で聴かれる時代に戻った
アーティストが考えた曲構成を重視せずイントロで曲を飛ばしたり、アルバムの好きな音楽しか聴かなかったりするようになる
世界同時公開が当たり前になり、流行が均質化している傾向がある
アメリカとイギリスの音楽が切っても切り離せない関係なように日本や韓国やドイツ、北欧の音楽も世界の音楽の発展に切り離せない存在になるような時代が来る→アメリカイギリスのアーティストに日本の感性が影響与え、今までにない日本発祥のジャンルの音楽が現れるかも
邦楽を邦楽たらしめるものは何か見極め、それを忘れぬようプライドをもって世界に勝負できるものをつくる
日本人離れしてないものが文化輸出成功の源



感想
カリスマブラザーズ時代から好きで、みのミュージックになってから毎回動画を見るくらいに大好きなみのの著作
それまでは歴史や発展とかを考えずにただ好きな音楽を聴いていたのが、そういったことを考えて音楽を聴くように成長させてくれたみのの本だけあり、知識がアップデートされるものがたくさん詰まっていて、メモした内容も過去一で多かった
アメリカイギリスで音楽が成長している時代に、日本はもうすでにそれを受け入れる経済状態になっていたことは、韓国やインドのようにラジオやCDの普及が遅れた国に比べて、音楽に関する歴史の厚みが違うだろうのでラッキーだったよなと思った
日本の面白い音楽も一世を風靡してほしいなと思う気持ちが倍増しました
💮

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