愛犬の死。祖母の死。そして私が上京を決めた日。
愛犬は私が小学4年生の時に里親募集のイベントでもらってきた雑種である。
もらった当日は片手に乗るくらいまだ小さかった。
ほとんど1日眠ってばかりで、小さな段差も登れないほど赤ちゃんの時に譲り受けてきたのだ。
私はずっと犬を飼いたい飼いたいと主張してきたが、動物アレルギーがあったり、どうせ世話するのはアンタじゃないやろと言われ続け、やっと念願叶って飼うことがゆるされた子だった。
祖母も祖父も変わり者だったが、犬は好きだったようでよくかまってくれた。
母もいつのまにか溺愛するようになった。
次から次に新しいおもちゃを買って来、人間が食べるより高いおやつを与え、能う限りの愛を与えた。
しかし皆甘やかすだけで、だれも躾をしなかった。
かかりつけの動物病院がしつけ教室をしていると言うので母に打診したが、時間が早すぎる(※朝5時からの開催だった)とか、先生が気に食わないとかの理由で、しつけ教室には通えなかった。
そして暴君のような犬に仕上がったのである。
いい番犬といえば番犬だったけれど、飼い主にも噛み付いたり、落ちているものをなんでも食べたりと、とにかくやりたい放題で殺しても死なないような犬ができあがってしまった。
しかしそれでも可愛かった。
普段はヤンチャなくせに、人が落ち込んでいると敏感に察知し、人の膝の上に「まあ撫でろよ」みたいな感じで座ってくる。
泣いているとぺろぺろと涙を拭いてくれる。
どれだけ噛みつかれようが言うことを聞かなかろうが、可愛い可愛い家族だった。
しかし祖父が急逝した翌年の夏、愛犬の異変に気づく。妙にごはんを食べないので、夏バテかと思い大好きな犬用ミルクを用意するも、それも食い付きがわるかった。
何も食べないので、もともとふっくらしていた体型は少しずつ痩せていった。
確実におかしいと思ったのは、階段を登れなくなったことだ。
それまで、彼は玄関で寝ていたのだが、ある夜くぅんと鼻を鳴らして上の部屋へ連れて行けと言う。
しかし階段を上る動作をしようとせず、抱っこされるのも嫌がり、それでも上の部屋に行きたいという。
違和感を覚えた私は、ここ最近の異変をまとめて動物病院に電話をした。
しかし躾のなっていない犬なので、診てくれるかどうかが不安だった。
先生としては早く診察させてほしいとのことで、連れていったその日に肝臓がんであることがわかった。
きちんとしつけ教室に連れて行ってあれば、動物病院へも普段から通えたはずで、定期検診ではやく見つかっていたかもしれない。
しかしあの時はしつけ教室に通う余裕がなかったと母は言う。
そして1番気が動転していたのは母だった。
肝臓は沈黙の臓器である。私はそのころちょうど医療に関して勉強している身だった。
ましてや相手は犬である。答えは分かっていた。
母は犬にすがりついて泣いた。
残り短い犬生を謳歌してもらうために、私たちはあれこれ工夫した。
家でトイレをしない子だったので、犬用バギーを買って外に連れ出せるようにした。
ごはんはまともに食べなくなったが、焼いたお肉や生のお肉の臭いには反応したので、母は精肉コーナーの人から聞きかじってなるべく新鮮なお肉を買ってきて与えた。
確実に人間が食べるよりいい肉である。
これまで玄関で生活していた犬は私か母の部屋で寝るようになり、我が家では連日焼肉が行われた。
そしてついにその日は来た。
足の毛がてらてらと光り、浮腫んでいるのが分かる。
一所懸命呼吸している感じだった。母は一晩中ずっと愛犬の身体をさすっていた。
私が仮眠をとっていると、起きて!と呼ばれた。もうほとんど呼吸をしていなかった。
最後にびくん!と下顎呼吸をし、ライトで瞳孔が収縮するか確認したが、息を引き取っていた。
もう少しで13歳になる、というころに、殺しても死なないと思っていた愛犬はあっけなく亡くなってしまったのだった。
翌日私は学校を休み、母も私もたまたまバイトのシフトが休みだったので、身体が腐ってしまう前に荼毘に伏せてもらうことにした。
その日は兄も家に来、3人で犬をお寺まで連れていった。
ただ寝ているかのような穏やかな顔だったので、ほんとうに焼いてしまっていいのか、まだ生きてるんじゃないのか、何度も身体をさすって確認したが、その毛に覆われた身体は哀しく冷たかった。
悪坊主だったが、賢い子だったので、最後はほとんど体液も出さず、綺麗な状態だった。
骨になってしまった愛犬。
母はしばらくペットロスの状態になった。
私は学校があり、母にはアルバイトがあった。
バイトを斡旋してよかったと思う。
なにかすることがなければ、愛犬の死を悲しむことしか出来ないロボットになっていただろうから。
愛犬の死からまもなく、祖母も入院していた施設で亡くなった。死因は膵臓がんだった。もう危ない、という連絡が入ったのが夜中だったので、母と叔母が病院へ向かった。
ふだん祖母の世話をしにも来なかった叔母の方がうろたえており、心電図が音を鳴らすたびにナースコールで看護師を呼び、大変だったという。
もうアルツハイマーでなにもわからない人を延命させて、どうするというのだろう。
入院しているとはいえ世話をするのはけっきょくうちの母であるのに。
一度延命すれば延命を止めることはできない。
祖母がアルツハイマーになってから、祖父が大腸がんになってから、世話をしてきたのはずっと母だったのだ。やきもきするくらいなら、後悔のないように生きているうちに何かしてあげるのが愛じゃないだろうか。
アルツハイマーでなにも分からず、苦しまずに亡くなったのは唯一の救いだったろう。
祖母に関してはもう何年も入院した状態で、膵臓がんのことも聞かされており、母も覚悟は出来ていたので、祖父の時のような取り乱した様子もなければ、慣れた感じでいろいろと手続きを済ませた。
だれもいなくなった家。
そんな折に、私が東京で就職すると言う。
はやく1人になりたいと言っていたので、あっさり了承されるかと思いきや、意外にも引き止められた。
東京は怖いところや、事件もよくあるし、人も冷たいし、行かん方がええ。
東京に住んだこともない人がなぜか一所懸命東京の批判をしている。
私は地元を離れるつもりはなかったのだが、学校の就職説明会で同校の先輩が入社した会社の説明を受け、ヒューマンスキルに重きを置いた研修をしていること、そして東京と地元では患者の母数がちがうので経験になること、年齢を重ねてから東京に出るよりも、先に東京へ出て田舎に帰ってきた方が知識も技術も活かせるという説明を受け、納得してその会社で勤めることを決断したのだった。
一方で母は、最後まで反対していた。
あんなに1人になりたいと言っていたのに。
実のところ私も不安だった。
一人暮らしなどしたことがない。料理はできるが、洗濯機もまわしたことがなければ干したこともない。
部屋の片付けも母に頼んでいた。
そんな私が仕事をしながら1人で生活できるのか。
そういう不安もあり、どうせ長続きしないだろうと踏み、周囲には1〜2年したら帰ってくると伝えていた。
空港行きのバスの窓から、泣きながら手を振る母が見えた。
そして上京してすぐに母の体に異変が起きはじめたのだった。
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