尖った月

月がよく見える。
満月でも三日月でもない中途半端な形の月だ。
目の前には恋人。
数分後にはそうでなくなる予定だが。
私は口を開く。
「私たち、別れよ?」
こういった類のことばというのは、できるだけ短く、簡潔な方がいい。
え、と彼の当惑する声が聞こえた。
案の定、目の前の彼の眼にはすでに、薄く光る涙の膜が張っていた。
深く俯き、その肩は小さく震えている。
このひとは、私のことがすきなんだ。
私はそんな分かりきったことを考えていた。
そのまま、暫くの時間が過ぎた。
気まずい空間に耐えられなくなり、口を開こうとしたそのとき、彼の顔がこちらを向いた。
笑顔だった。
まるで、私たちが恋人になることが決まったあの時のような、笑顔だった。
「わかった。別れよう。」
彼は意外な程、あっさりと言い放った。
私は彼の感情の流れに少しの違和感を感じつつも、恋人という関係を円満に終えられたことに対して安堵していた。
「今日は月が良く見えるね。」
彼は言う。なんだか妙に楽しげだ。
「そうだね。」
「僕は君のことがまだ好きだから、今の君のことがとても憎らしいよ。」
よく分からない表情だった。
喜怒哀楽の全てをぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたような、そんな表情だ。
「だから、今日の月がやせ細って、凶器として使えるくらいになったら、僕は君のことを殺しにいくね。」
ジョークだ、と思った。
文章を読むことが何よりも好きで、どこにいくにも文庫本を持ち歩いていた彼なりの、粋な別れなのだ。
私は少し微笑んで応える。
「わかった。そのときに、また、会おうね。」
彼は満足げに頷いた。

あの日のことを思い出していた。
時刻は午後23時。
しんと澄み切った、夜の空を見上げる。
月は、見えない。
静かな部屋に、インターホンの音が響く。やけに不気味な音だ。
こんな時間に、と少し腹立たしく思いながらもドアを開けると、そこにいたのは紛れもない、彼だった。
「こんばんは。」
彼は笑顔で言う。
ぼうっと浮かび上がる彼の姿は、なんだか浮世離れしていた。
「どうしたの?」
「どうしたのって、約束したじゃないか。」
「約束?」
あの日のことばが脳裏によぎる。
「まさか、本当に、」
「今日の月は見た?」
「今日は月は出ていなかったけど。」
「当たり前だよ、だって今僕が持っているからね。」
彼の左手に握られていたのは、まさしく月、だった。
先端が鋭く尖っていて、今にも折れてしまいそうな程だ。
まるで、空から離れて自信をなくしてしまったかのように、ぼんやりと、弱々しく発光していた。
私は、月って思っていたよりずっと大したことないんだな、 なんて呑気なことを考えていた。
「どうやってとってきたの?」
「それはね、」
彼は嬉々とした表情で語っていたが、途中から聞き取れなくなってしまった。
私の喉に、月の先端が刺さり、血が吹き出す。
朦朧とする意識。
ぼやける視界の中、彼の顔を見る。
それはもはや彼の顔ではない。
人間ではない。
人間ではない、何か。
あ、と思った。
地球に住む生物のすべてが、地球で生まれたとは限らないのだ。
私はすべてを悟った。
必死に絞り出した最期の声で言う。
「ワレワレワウチュウジンダ。」
目の前の何かが笑う。
「それは地球人しか言わないよ。」

私は死んだ。
私を殺すためだけに月を使ってしまって、これからどうするのだろうか。そんな間抜けなことを思いながら。

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