午前8時

しまった。
桃花はその場に立ち竦み、大声で叫び出したい衝動に駆られる。
時刻は午前8時。青く澄みきった空が気持ちのよい朝だった。
窓の外のきらきらと輝く光と、今自分の目の前に広がる景色のおぞましさとを比べ、桃花は目眩を覚えた。
2年前に母親が死んで、ギャンブルと酒に溺れる父と二人暮らし。桃花は学校に通いながら働き、貧しいながらも暮らしを守っていた。
だがそれももう限界だったのだ。
学校では同級生たちが、互いの裕福さを競うような会話をしている中で、なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか。いつもそんなことばかり考えていた。
毎朝、目を覚ました瞬間に鼻を掠める酒の匂いに、稼いでも稼いでも使われてしまう金に、そしてたいして期待もできない自分の未来に、もう懲り懲りだった。
空っぽになった酒瓶を、思い切り振り上げて真下に下ろす。それだけのことで人間はこんなにも汚くなれるのか。どこか冷静な自分が、自分の手によって行われる残虐な場面を分析していた。
目の前に転がる赤黒いなにか。おそらく父親だったもの。を、見下ろして桃花はつぶやく。
「あ、もうこんな時間。学校にいかなくちゃ。」

しまった。
またやってしまった。もうやめようと、あんなに誓ったのに。
香奈子は同じ罪を繰り返してしまう自分の愚かさに呆れ、自嘲するように笑った。
かばんの中には、昼食にする予定のパンやおにぎり、紙パックのジュース、菓子などが乱暴に詰め込まれていた。
小学3年生の頃だろうか。
友達とお揃いにしたくてずっと欲しがっていた消しゴムを近所の本屋で見つけ、そのまま家に持ち帰ってしまった。そのときの私はお小遣いを使い切ってしまっていたのだが、「どうしても今欲しい」という強い欲望に支配され、正常な判断ができなかったのである。
小さな掌で握りしめた消しゴムが誰かにバレることはなく、なんのお咎めもなかった。
その後私は、この行為を頻繁に行うようになった。そう、高校生になった今でも。
時刻は午前8時。
だんだんと元気になり始めた太陽が、香奈子を嘲笑うかのように輝いている。
眩しい光に言い訳をするように香奈子はつぶやく。
「だってしょうがないじゃん。盗んだおにぎりが世界で一番おいしいんだから。」

しまった。
昨晩のことを思い出し、どうしようもなく沈んだ気持ちになる。
まだ人の少ない職員室で、優子は長めのため息をついた。
着ているのは昨日と同じ服。目の前のパソコンにうつり込む自分の顔が、とてつもなくくたびれて見えた。
何度も同じ過ちを繰り返してしまうのはきっと、
自分があの人への気持ちを断ち切れていないからだろう。心の底ではまだ、私とあの人が結ばれる未来を夢見ているのだ。あの人には綺麗な奥さんもいれば、かわいい子どもだっているのに。
誘ってくるあの人も悪い。私だけが悪いわけじゃない。無理やり自分に言い聞かせ、頬を両手で叩いた。
時刻は午前8時。
こんなどうしようもない女(三十路)が、これからの日本を担うあの子たちの手本になれるわけがない。そんなことを思いながら、優子はつぶやく。
「これが本当の、反面教師ってか。」

しまった。
目が覚めた瞬間、嫌な予感で胸がいっぱいになる。
時刻は午前8時。
家から学校までの距離を考えると、この時間には出発していないと間に合わない。
もう、遅刻はできないのに。
週に3回は寝坊をしてしまう千紘は、昨日ついに担任教師に呼び出しをくらった。
鬼のように目の釣り上がった担任にぺこぺこと頭を下げ、命からがら帰宅したのだが、最後に捨て台詞のように言われた言葉が忘れられない。
「次遅刻したら、わかってるわよね?」
いやわかんないよ!!なに?殺される??
怖い!超怖いよ!!!!!!
現実から逃げるように、千紘は布団のなかにもぐった。
天国のような布団のぬくもりに、自然と瞼がおりてくる。遠のいていく意識の中で、千紘はつぶやく。
「あと10分…いや、30分だけ…。」

「桃花おはよ〜!なんか顔色悪くない?」
「あ、香奈子おはよ!そうかな?普通に元気だよ?」
「大丈夫?疲れ溜まってない?ただでさえあんたんとこ大変なんだから!」
「大丈夫だよ〜!大変なのは慣れっこ!それより、朝バタバタしてたらお腹すいちゃった…」
「朝ごはん食べてないの?私、今日昼ごはんたくさん持ってきたから、食べなよ!はい!」
「え?いいの?メロンパンなんてもらっちゃって…香奈子の分ちゃんとあるの?」
「私、おにぎりふたつも持ってきたから!」
「もう、どんだけ食べるのよ〜!!あ、先生おはようございます!」
「おはよう〜!お、いいなメロンパン!」
「先生にはあげませんよ〜!ていうか先生、昨日と同じ服じゃん!なんで??」
「バレた…?まだ衣替えしてなくて、冬の服がこれしかないのよ。でも洗濯する暇もなくて…。」
「先生それ、女子としてやばいですよ!」
「やめてよ〜!あれ?千紘まだ来てない?」
「来てないですよ。あの子本当に遅刻ばっかり!」
「昨日言ったのにな〜。次遅刻したら校庭10週って。」
「なにそれしんどい!!」
「もうチャイムなるよ〜!自分の席座りなさい。」
「は〜い!!」

〜キーンコーンカーンコーン〜

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