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月の宮

「お月さん、今日も大きいね。」

「そうねえ。大きいわねえ。」

 昼下がりの公園で小学生低学年くらいの子供とその母親らしき人物がそう話しているのが聞こえてきた。

 缶コーヒーを飲みながら、俺もその月を睨みつけていた。月を見ている間は将来のこととか、今仕事をサボっていることとか、そんな悩みはちっぽけな空想に過ぎないと思わせてくれた。

 太陽に照らされた月は、青空にその巨大なクレーターを見せつけていた。俺が子供の頃は、兎が餅をついているかのように見えていた。が、近づくごとにうさぎと思っていたその輪郭は空に滲んで消えていった。後に残ったのはこの通り、凸凹でこぼこで痛々しいあとだけだった。

リン……

 不意にどこからか風鈴の音が聞こえてきた。さっきの親子が持っていたのだろうか。

リン….

もう一度その音が聞こえてきた。と同時に、無邪気な声が月を見て呆けていた俺の意識を呼び覚ました。

「こーひー!こぼれてるよ!!」

先ほどの男の子の声だ。俺はいつの間にか手にしていた缶を斜めにしていたようだ。ボスがちょうどお辞儀しているかのように見える。なぜか誇らしい気分になった。

リン…….

 茶褐色の液体はボスが深くお辞儀をするごとに、ぽた、ぽたと歩き潰した革靴に垂れていく。それは弾かれることなく、黒いボロボロのキャンバスに吸い込まれていく。俺はただ、その様を見ていた。

 母親が、

「今日はもう帰ろっか」

と優しく子供にさとすのが聞こえた。本音はきっと別にある。俺から離れたいんだろう。今ここに一人の不審者が誕生したわけだ。

 不意に聞こえた風鈴の音が童心どうしんを思い出させたかと思えば、月をみて、何近づいてんだ、この野郎。と苛立ちいらだちつのらせる。

先ほどまでどこまでも澄み渡る青空と思っていたのに東の方に濃い灰色をした雲が見える。

スマホのアラームが一瞬、意識を空想の世界から現実に引き戻す。

着信は一件。四角い無機質なバナー表示はガキの頃に拾ったエロ本の袋閉じを開けるような背徳感はいとくかんを味合わせてはくれない。

「ごめん、別れよ。ほんと無理。」

 女心は秋の空、というが秋の空の方が幾分かわかるくらいだ。今ならわかる。あと数刻すうこくもすれば大雨で、月も涙を流すだろう。

足元にひんやりとした感触が伝う。

右手に持ったままの空き缶がボスの魂一個分軽くなったのがわかる。

悲しそうなボスは涙を流さない。

俺はゆっくりと空き缶を足元に置き、それを勢いよく蹴り飛ばした。

嘘の笑顔を見せつける月に届くように。

お前はいいよな。太陽がいてくれて。







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