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インタビュー調査の「適宜確認」②~より深いインサイトを得るための理論・技法編3:「六感曼荼羅」

3、受動的感覚の中にある潜在ニーズを見出す「六感曼荼羅」

「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」の五感に加え「空気」や「雰囲気」などの「気」を感じる感覚(気覚=第六感)を含めて六感とします。

感覚というものは刹那に発生するものであり、しかも受動的であるが故に意識に残りづらいものですし、ましてやそこから「ニーズ」を読み取ろうとするのはなかなかに困難です。しかし、だからこそ、ここは潜在ニーズの宝庫であるとも言えます。

まず、感覚とは本当に「受動的」なのか?を考えてみたいと思います。

例えばスーパーマーケットに行ってテレビのCMで見た欲しい新商品を探すとします。その商品がどの売り場にあるのかも定かではない場合や、おいてあるのかどうかすらもわからない場合は、だいたいのあたりをつけた売り場のあたりへ向かいます。そしてそこで棚を目で追ってその商品を探します。この場合の視覚とは明らかに能動的なものです。アイトラッキングをするとよくわかるのですが、棚を舐めるようにザーッと見ていく中で、それらしい商品、気になる商品があるとそこで視点の動きが止まります。そしてその商品が目当てのものか違うのかを判断しているわけです。

さて、この時、視点を止めたという行為については当然「意識」が関わっています。しかし問題は止まらなかったその他多数の商品です。その行為は受動的なのでしょうか?

意識としては「見ている」ものと「見ていない」ものがあるということになります。しかしアイトラッキングが示す通り、まず厳然たる事実としてどちらも「見ている」ということがあります。その中で視点が止まるものと止まらないものの差は「要不要」です。不要だと判断されたから視点が止まらないのであり、必要だと判断されたから視点が止まるわけです。見ているから判断できるのです。止まらなかったものは意識されておらず記憶にも残りづらいわけですが、実は能動的に見られていたわけです。

客観的には存在するモノやコトが場合によっては見えないこと、聞こえないこと、感じないことなどの経験は誰しもが持っていると思います。それは、その時に「感じようとしている」ことに意識が向いていて、それ以外のことは感じなくなっているということに他なりません。つまり、少なくとも記憶に残っているような感覚は、その時にそれを「感じようとしていた」からであり、記憶に残っていないようなことでもそれを「感じようとしていなかったのか」ということは疑問であるわけです。こう考えると、「なぜそれを感じたかったのか?あるいは感じたくなかったのか?」という論点が生まれます。

例として「二人して流星になったみたい」と感じている時の「中央フリーウェイ、右に見える競馬場、左にビール工場」という歌詞を考えてみます。※この歌詞は一つのナラティブだと考えることができます。

※「中央フリーウェイ」作詞:荒井由実. 作曲:荒井由実


「右に見える競馬場、左にビール工場」、これは明らかに「視覚」の表明です。他にもいろいろな建物や自然の風景がある中で、なぜそれが「見えた」のか?というところに潜在ニーズを読み解くカギがあります。実は「見えた」のではなく、黄昏時の中央フリーウェイのドライブという『状況』『行動』の中で、その『対象』を「見たい」から見ているのです。色々な感じ方があるなかで「まるで滑走路」や「二人して流星になったみたい」と感じたいからこそ「競馬場やビール工場」を見ていたのではないだろうか?と考えますと、山などのより遠くのものや向かっているもの(この場合「山に向かって」いたのは他の部分の歌詞より明らか)よりもスピード感を感じるより近くの、左右にある目につくものを見たかったのではないか?時間帯(黄昏時から夜に向かう)を考えると、照明がより目につくものを見たかったのではないか?(照明による航空標識などがあるであろう調布基地も「追い越し」ながら見ていた)などというインサイトができるわけです。

さらに、この場では「流星になったようなスピード感」を感じたかったわけですから、カーラジオやカーステから流れる音楽はどうだったのか?いやそそもそも「風が強くて聞こえない」のではないか、つまりは聞いていたのは、すなわち聞きたかったのは、風の音ではないか、などなどいうことにも思いが巡ります。

ここで因果が逆ではないかという疑問もあるかと思います。「愛していると言っても聞こえない風の強さ」だからこそスピード感を感じ、二人して流星になったみたいだと感じたのではないかということです。しかし、この時の感情を考えますとそれは明らかに「Happy」感情です。つまり、中央フリーウエイに乗る前には潜在していたニーズが満たされたからこそHappyなのだと考えるわけです。その潜在ニーズが顕在化して満たされた時のいわば感動、エモーションがこのような「エモい」歌詞に昇華していると考えるべきでしょう。このスピード感は「最近冷たかった彼」と「二人して」共に感じた『状況』のものである、ということにもさらに思いを致す必要があります。

逆に「Not Happy」感情を持ちながら感覚を感じていることもあります。この場合は満たされないニーズがある、あるいは、満たされなくなる不安がある、といった解釈ができます。例えば腐敗臭というのは普通は不快ですが、それは、腐ったものを食べると「健康でありたい」というニーズが満たされなくなるからでしょうし、「おいしく食べたい」というニーズが満たされないからだと考えるのが最も簡単な例です。しかしそれを感じているのはやはり「感じたい」からであり、それは、人間の生存本能や防衛本能に起因すると考えることができるわけです。

最近行ったある調査で「テレワークをしながら音楽を聞き流している」という発言がありました。それこそついうっかり聞き流すところだったのですが、そこで重要なのは「どんな音楽を聞いていたのか?」ということです。例えばアップテンポの曲とスローな曲ではその音楽を聞く目的、すなわちニーズが違ってきます。つまりこの場面で聞いている『対象』である「曲のジャンル、タイトル」は「中央フリーウェイの黄昏時に左に見えるビール工場」と同じ意味を持っているわけです。それがわからないとニーズが読めないわけです。

また、「ライブ配信アプリのライバーの雑談を楽しんでいる」という話もありました。その場合は聴覚と視覚が関係しますが、そのライバーの姿格好とか、雑談の内容が問題となります。また、そのライブ配信を見ている状況もニーズを読み取るためには必要です。

これらの例のように、感覚に関する話はついつい分かったつもりになりますし、潜在しがちにもなります。しかし冒頭に申し上げたようにだからこそ、潜在ニーズが読み取れる宝庫でもあるわけです。

「六感曼荼羅」はそのニーズを読み取る観点を曼荼羅として表現したものです。どんな「状況」でどんな「対象」に対して、どんな「行動・動作」をしながらどんな「感覚」を感じ、その結果どんな「感情」なのか?を具体化することでその感覚に潜む潜在ニーズを読み解こうとするモデルです。これらの要素のどれかが不明である場合、潜在ニーズをインサイトするためにはそれが適宜確認される必要があります。

この曼荼羅は「無常に変化する感覚にも人間の欲求が関わっている」というということを表現しようとするものでもあります。







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