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中国人にとっての「面子」とは何か

先日、牛乳屋さん(Twitter:@milkshop)のnoteにて、僕の書いた記事を紹介していただきました。謝意を評します(冷静ぶって書いていますが、引用されたのを見つけた時はうれしくてニヤついていました)。

さて、こちらのnoteにこんな一節がありました。

「メンツ=見栄」と思いがちですが、残念ながらメンツは見栄の一言では片付けられません。メンツはプライドでもありますが、もちろんプライドの一言だけでも片付けられません。

(週刊牛乳屋新聞#14(中国人と「食」を巡って発生した二つのトラブル)
https://note.com/kohei0920/n/ncfa2a5c657e3 より、2020年7月31日閲覧)

個人的にはこれに大きく同意で、「中国人は面子が大事」「中国では面子を失ったら生きていけない」という紋切り型の表現だけでは、中国人にとっての「面子」を理解するには足りないと常々考えています。

このnoteでは、中国人にとっての「面子」とは何かについて、自分なりに論じてみたいと思います。

面子とは、能力の評価である

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上の牛乳屋さんのnoteでも紹介されている、日本人の視点から中国人を読み解くための必携本である田中信彦さんの『スッキリ中国論』にも、中国人の面子に関わる記述があります。

”中国語でよく使われる言い回しに「面子が大きい」という言い方がある。(中略)要するにこれはその人の「問題解決能力が高い」ことを意味する。つまり「他の人にはできないことが、その人にはできる」ことである”
(中略)
”中国社会における面子の本質とは、その人が「他人には不可能なことができることが明らかになる」とか、その人が「他人より優れていることを周囲の人が認める」”状態”である”

田中信彦『スッキリ中国論 スジの日本、量の中国』(2018), 第4章 「量」の世界は毎日が戦い より)

つまり「面子」とは、その人の能力や地位を含めた社会への具体的な影響力を指している、という考え方です。「あの人は面子がある」「面子が大きい」というとき、それはその人が能力的に優れた人物であること、顔が広くさまざまな便宜を図ってもらえる人脈などを持っていることを示します。

この場合の「面子」は、そのまま「強さ」とも言い換えることができるかもしれません(そういえば某漫画の中国拳法家は「強さ」のことを「自己の意を貫き通す力__我が儘を押し通す力__」と言っていました)。

この見方は、生活者としての実感と一致します。中国人は「あの人はあの会社で重要な役職だ」とか「あそこの家の子は、どこそこの老板(社長)の口利きでいい学校に入れてもらえた。やっぱりあの老板はすごい」などの話題が大好きで、常にその「面子の大きさ」を評価しあっているような印象を受けます。

このような「面子」の概念は、日本人が思う日本語の「メンツ」とは少し異なります。日本で「メンツ」というとき、思い出されるのは「武士は食わねど高楊枝」のような内面的な規範に関することです。そこでは現実の能力や状態はあまり考慮されておらず、「武士たるもの、こうあるべきである」という規範・プライドをいかに守るかが「メンツ」の鍵となっています。

中国人の場合、そういった規範のことは「面子」とはそれほど関係がありません。もしこの武士が中国人だとしたら、彼にとっての「面子」とはお腹が減っていることを悟られないために楊枝を掲げて歩くことではありません。いかに早く空腹を満たすかということ、そのための能力を持っていること、もしくは自分のためにご飯を用意してくれる人がすぐに見つかること、などが「面子」にあたります。

面子を守ることのインセンティブ

自分の面子をどのように守るか、または他人の面子をどう立てるかについて、中国人は手間や労力を惜しみません。派手なパーティーを開いて人を集めて大演説をしたり、おおげさなプレゼントを贈りあったり、誰が食事の会計を持つかにこだわったりすることは、すでにさまざまなところで語られている通りです。

そうした中国人の面子への執着は、日本人から見ると異様に見えてしまうこともあります。しかし、中国人にとってはそれがある種の「生きやすさ」と直結していることがわかれば、理解しやすくなります。

中国は、一人で生きることが難しい社会です。朝令暮改でルールが目まぐるしく変えられてしまう環境の中では、属人的な繋がりの中で自分の身を守ることが重要になります。特に強い人・能力のある人・ルールの裏を衝ける人と繋がっておき、いざという時に力を貸してもらえるかどうかが生存戦略において大きなウエイトを占めます。そのための指標として、「面子」が機能します。

上で述べたように、面子が大きい人=特別な人、社会的な実力のある人です。「この人と仲良くしておけば有利だ」と思った人には、贈り物や協力を惜しみません。そうしておくことで、自分も何かあった時にその人からの協力や便宜が得られる可能性が高くなるからです。

またこのことは翻って、周囲に「この人は面子が大きい」と思ってもらうことができれば、さまざまな恩恵を受けやすいということにも繋がります。そのため自分がいかに能力があるか、役に立つ人間であるかという「自分の面子の大きさ」を周囲に向けてアピールすることも、有利な戦略となりえます。

この互助関係のようなものが、中国人の「面子」を形成し、彼らの行動を決定しているということが、一つの側面としていえると思います。

「自分の利益のために、媚びたり虚勢を張ったりしてるだけじゃないのか」と言ってしまいそうになりますが、中国人と関わってきた者の実感としては、そういうものとは少し違うような気がしています。というのも、彼らは計算高くそれをやっているというより、ほとんど考えるまでもなく「そういうものだから」とごく自然に行動しているように見えるからです。

方向性は違いますが、日本にも「空気」としか言いようのない風習が存在するのと似ているように思います。会議や飲み会の席順であったり、上司より早く帰ることがなんとなくタブー視されたり、強制ではない社内行事になぜか全員欠かさず参加していたりするなど、特に根拠はないが「そうなっている」ことが日本にもたくさんあります。

一目には非合理的に見えるが、暗黙知や目に見えない合理性のために「そうなっている」という点で「面子」と「空気」は相似形です。違うのは「空気」は個人が全体最適に貢献することへのウエイトが高いのに対し、「面子」は個人最適を目指す指向が強い点でしょうか。

面子意識は薄れていくのかもしれない

そんな「面子」ですが、これも日本的な「空気」が近年はなにかと敬遠されがちで、「空気を読む」ことへの意識や習慣が薄れつつあることと同じように、将来的には今ほど重要視されなくなっていくかもしれない…と個人的に予想しています。

卑近な例ですが、自分の嫁(中国人)の話をさせてください。

嫁は春節や国慶節などで実家への里帰りイベントが発生するたびに紅包(祝い事の際やり取りされる現金。日本のお年玉にやご祝儀に似ているが、時期や年齢にかかわりなく行われる点と、相互に渡しあう点が異なる)の金額について、兄弟や親戚とやたらに駆け引きをしています。

誰それにはいくらにしよう、私は〇〇元出す、えー私はそんなに出せないしその人に出すなら△△さんにも出さないといけなくなっちゃうでしょ、でも出さないとあの人の面子が…などと、僕から見れば正直言って不毛の極みとしか見えない議論が延々と続きます。

この「いくら出す」「いくら出せる」という金額のパワーゲーム、ある意味面子文化の縮図・象徴ともいえる紅包に関して疲弊するたび、嫁はいつも「私の子どもにはこの紅包という文化そのものを教えたくない。こんな習慣は私の世代で根絶やしにしなければならない」と語気を強めます。

これはイライラからくる極論だとしても、日本に移住した中国人が日本での生活を選んだ理由に「面子を気にしないで済むから」と答える例があるらしいことなどを見るにつけ、時には自分の望まないことや能力以上の振るまいを求められる「面子」という文化に、息苦しさを感じる人も少なくないようです。

中国も国としての成熟期に入り、経済的・社会的な自立が昔よりも難しくなくなった今、互助的な関係に頼らなくても生きていけるのであれば、「面子」からは距離を置きたい人も増えていくでしょう。

日本に根強く残る「空気を読む文化」がまったく廃れるということが考えにくいように、中国の「面子を計る文化」が絶滅することはありえないでしょうが、これからは「中国人は面子を何よりも大事にする」というステレオタイプとは少し違った中国人像が形成されていくのかもしれません。

まあ、今日も嫁の親戚のWeChatグループに飛び交う電子紅包を見ていると、まだまだ先の話だとは思いますが。

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