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見えている世界が違うと知った上で、どう関わっていくのか

人材育成コンサルタントの孔 令愚さんのnoteが素晴らしかったです。

馬刺しが「美味しそうな食べ物」に見える人もいれば、そもそも「食べ物に見えない」人だっている。馬刺しが「食べ物に見えない」人にいくらその美味しさを伝えようとしても、そもそもの前提が違うために話が通じない。こういった、価値観以前の「見えている世界」の違いが存在していることを知ろう、というお話です。

普段から中国に暮らし、まさにこの「見えている世界」の違いの存在を実感することの多い僕としては非常に学びのあるnoteでした。

今日はこの「見えている世界」の違いに関して、それを自覚した上でどのようにコミュニケーションすべきなのだろうかということを考察しつつ、自分なりにまとめたいと思います。

相手に見えている世界の前提に立って物事を進める

上のnoteでも書かれているように、基本は相手に見えている世界を尊重し、その前提に立って話をしながら物事を進めていくということが必要になります。

中国人にとって会社が「共同体」ではなく「お金を稼ぐところ」に見えているのだとしたら、日本的な「共同体」としての会社論を押し付けるのではなく、むしろ「お金を稼ぐところ」としての魅力を訴求していく。たしかにそのほうがよっぽど建設的です。

僕自身の身近な例で言えば、嫁とのパンツ手洗いルールがあります。中国では下着を洗濯機に入れずに別途手洗いする習慣を持つ人が多いのですが、僕はこのルールを正直半ば無意味だよなあと思いながらもしっかり守るようにしています。嫁に見えている「パンツを洗濯機にいれるなんて気持ち悪い」という世界観は、言ったところで変わりはしないからです。

自分に見えている世界のことをわかってもらうよう努める

一方で、相手にどのように世界が見えているのかを理解した上で「自分には世界がこんな風に見えている」ということを、単なる押し付けではなく説明していくことも必要ではないかと思います。

パンツの手洗い程度のことなら、どちらか一方が我慢して合わせていれば済む話ですが、中にはそういうわけにもいかないことが出てきます。

またもや自分の夫婦の例で恐縮ですが、僕は結婚手続き、とりわけ結婚式の段取りに関して両者のあまりの考え方の違いに消耗した経験があります。これこそ、「結婚」というイベントに対してお互いに見えている世界の違いがもたらした摩擦です。パンツ問題のようにどちらか一方のことを「わかったわかった」と適当に合わせているだけで、解決するようなものでもありません。

実際、この時に「なんとか自分が我慢してやり過ごそう」とばかり考えていたことで心がアレな感じになってしまい、カウンセリングに頼るまで精神が追い詰められました。

この時も結局、粘り強くお互いの考え方を話しながら、少しずつその背景にある「それぞれに見えている世界」のことを知りながら妥協点を探っていくことでなんとか乗り切りました(まあ、二人が納得してもそこに家族の意見が絡んできて、また発狂しそうになったりしたのですが)。

相手の世界を尊重することだけでなく、自分の世界のこともわかってもらう。その時に、自分に見えてる世界を自明のよいものとして扱わない。これも、大切な営みだと思います。

無理に関わらない

そもそも、自分に見えていない世界のことを理解するのは簡単なことではありません。いくら話を聞いたとしても、想像で補えることはそう多くもないですし、「相手の立場に立つ」ことにも限界があります。また、理屈では理解した上でも、どうしても受け入れられないこともあるでしょう。

そんな時は、あまりに違う世界が見えている人に対して適度に距離を取り、関わらないことも大事かもしれません。その方が幸せということだってあります。

ただ、どうしても関わらざるを得ないような距離感——たとえば僕のように国際結婚夫婦であったりする場合には、そうも言っていられません。やはり相手の世界を知り、自分の世界のことを伝えていく営みが必要になります。

そのためにはいろいろなことを知り、自分の見えている世界を拡張していくことで選択肢の幅を増やし、受け入れられることの閾値を高めていくことが必要なのかなと思います。

未熟者なりに、まだまだたくさんのことを学びながら頑張っていきたいと思います。

それではまた。

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