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「外国語ができてなんか意味あんの?」について考えたことの記録

こんなツイートを見かけて、恥ずかしながらまるで自分のことのように腹が立ってしまいました。

「会語言有什么用?」とは、少し乱暴に訳せば「外国語ができてなんか意味あんの?」という意味です。

通りすがりに見かけた、前後の文脈も相手との関係性もわからないツイートに無駄な共感性を発揮して怒りを抱えるなど非生産的なこと極まりないですが、自分自身それなりに中国語を頑張って学んできた人間として、もし自分がこんなこと言われたら相当ショックだろうなあという思いがふつふつと湧いてきて、少し冷静でいられなくなる自分がいました。

これを見てから少し時間が経って冷静になれた今、この「外国語ができてなんか意味あんの?」について考えたことを書き残していきたいと思います。

外国語は間違いなく世界を、選択肢を広げる

「なんか意味あんの?」への反論自体は簡単です。「私がエビデンス」ではないですが、中国語を学んだものとして語学を学ぶことにははっきりとした意味があると断言できます。どう意味があるのかについては様々な切り口で語ることができると思いますが、最も大きいと思えることは、「外国語は自分の世界を広げる」ということです。

外国語ができれば、母国語だけでは知らない情報に触れることができます。母国にいるだけでは絶対に会えなかった人と出会うことができるようになるかもしれないし、住む国を変えることだってできるようになるかもしれないのです。その選択肢の豊富さは、間違いなく人生を楽しく、豊かにするものです。

また、そういった選択肢の幅という利点を考慮せずとも、違う言葉を学ぶことで「母語とは違う視点」を得ることができます。言葉とは、世界の切り取り方です。母語話者には世界がどう見えているのかということを知る手段、それが外国語学習です。外国語を学ぶことで、世界を見る解像度を上げることができるのです。たとえ外面的な世界が拡張しなかったとしても、自分の内面には大きな変化が起きます。それだけでも外国語を学ぶ価値は十二分にあります。

僕はnoteを書き続けてきて、今はありがたいことにたくさんの人に読んでいただけるようになりましたが、noteを書くためのベースとなる中国での生活は、中国語を学ぶこと無しには成り立ちません。中国語を習得し、中国人としての視点を借りながらそこに日本人としての見え方を重ね合わせることで思考を深め、それを言語化することことそが僕のnoteを支えてきました。誰にも中国語を学ぶ意味がなかったとは言わせません。

外国語だけではわかりやすい実利が得にくいのはのは本当

一方で、お金を稼ぐとか名声を得るとかいう実利的な意味では、外国語は直接的に役に立ちにくい、ということは事実としてあると思います。

むろん外国語を習得することで就職や昇進に役立った、とかいうことはあり得ますが、それに必要なのは外国語の能力「だけ」ではありえません。実利を得るには、何かお金になるスキルや実績を持っていることが前提になります。語学力は、ビジネスなどの現場においては「〇〇×語学」という、スキルの掛け算の後ろ側として機能するものです。

僕は中国に来て就職した際に、自分に語学力「以外」のスキルがなかったことを大きく後悔しました。いくら言葉ができるようになっても、本筋としての業務で力を発揮できなければ、現地スタッフからはギャーギャーと弁が立つだけの無能にしか見えません。

いまでも、これから嫁を養っていくために中国語「以外」に何ができるか、どんな専門性が持てるかをずっと模索しています。

学んだことがない人には伝わらない

しかし、こうやって「外国語を学ぶこと」の意義についてつらつらと述べてみたところで、根本的な問題として「こういう思いは、外国語を学んだことのない人には知りようがない」ということがあります。

たとえば僕が高校生の時に嫌いだった物理や化学だって、世界を広げるものには違いないし、きっと誰かの役に立っているものだし、極めればそれが仕事になったりもするものだとは理解できます。しかし、ろくにそれらを学ばなかった僕にはそれらがどう役立っているのかはわからないし、本当の意味でその素晴らしさを理解できてはいないでしょう。

外国語も同じで、きっと真剣に学んで自分の変化を感じたり、自分の言いたいことがうまく表現できなくて悔しい思いをしたり、それによって世界の見え方が変わったという経験がなければ、その効用を実感することは難しいと思います。「想像力が大事だ」と言われる昨今ですが、しょせん想像力で補えることになど限界があります。人は基本的に、自分に見えている世界のことしかわかりません。

そんなわけで「想像力の足りない」人に、「外国語ができてなんか意味あんの?」とか「自動翻訳が発達してきてるから外国語なんて勉強しなくていい」なんて言われてしまうのです。僕自身は自動翻訳が発達しても(むしろ発達してきてるからこそ)語学力を磨くことには大きな意味があると考えていますが、それもおそらくは伝わりません。

これを分断にしないためにも、楽しそうに生きよう

では、こうして「外国語を学んだ人」と「学んでいない人」に見えてる世界は一生交わることなく、お互いに見えないままで終わっていくしかないのでしょうか。今流行りの「分断」というやつです。個人的にはそれもちょっと寂しいというか、それでいいのかという気持ちがします。

いろいろ考えましたが、「外国語ができると、人生が豊かになるよ」ということが伝わるように、楽しそうに生きていく……くらいしか思いつきませんでした。

ここで書いたようなメリットだのを「語学を学んだことのない人」に滔々と語ったところで、おそらく伝わることはないでしょう。人は実感の伴う言葉しか聞き入れません。僕が誰かに「物理を勉強した方が絶対にいいよ」と言われたって、ピンとこないであろうというのと同じです。

であれば、「外国語を学んだ自分は、そのおかげで楽しく生きられているんだよ」ということが理屈ではなく誰かにわかってもらえるように振る舞うこと、それが本心からできるようにできるだけ自分を楽しくしておくことが、結局は一番いいのかな、と思いました。それがいつか、誰かの心や行動に影響を与えるかも知れないと信じて。

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なんだかスピリチュアルみたいな結論になってしまいましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。外国語を学んでこんなことが良かったとか、どうやったらこの楽しさや辛さが過不足有なく伝わるのかとか、もっと上手に表現できる方はぜひコメント等をお願いします。


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