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東大生ってどんな論文書いているの?①

こんばんは、東大経済2年の迎です。色々フォルダをあさっていたら、1年の時の論文が出てきたので共有しますね。

大学入ってどういうことしてるのかの参考になったら嬉しいです!

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テレビ番組で見る戦後日本〜「三年B組金八先生」に見る1970年代の教育〜

⑴ 金八先生の番組概要

 「三年B組金八先生」は1979年に放送が開始されたテレビドラマである。第1シリーズは全23話で、その後2007年10月に放映された第8シリーズまで、断続的に放映された(このレポートで1979年から1980年に放映された第一シリーズとその中の第一話に焦点を当てる)。

旧足立区立第二中学校(現東京未来大学)を舞台として、武田鉄矢が主人公を演じた。脚本は大河ドラマ「徳川家康」を手がけた小山内美江子が担当し、学園ドラマとして現代においても非常に有名な作品となっている。

⑵ 番組の内容と形式

 番組形式はドラマである。主人公坂本金八は桜中学に世田谷第一中学から転勤となり、三年B組の担任となる。西郷隆盛に似せたロングヘアーが特徴的で、その髪型について生徒からオカマのようだとバカにされ、はじめから反抗的な態度を見せられることが多かった。しかし、彼は非行・不登校・いじめなど様々な学校の抱える問題に立ち向かい、生徒に親身に寄り添って奮闘する。非行や受験戦争、内申書など当時の教育問題を取り上げてドラマが構成されており、それを金八が一つずつ解決してゆくという内容である。特に第一シリーズでは受験戦争が一つのテーマとなって話が展開された。

 第一話では赴任初日の夜、金八に生徒・吉村から電話がかかった。吉村は「さよなら」と一方的に繰り返し伝えて電話を切り失踪した。金八は学校で吉村が提出した作文を手掛かりに彼を探すため家を出る。

作文では「なぜ決まった親を親と呼ばなければならないのか」「夢はなぜ親のものなのか」「なぜ僕の偏差値が夫婦喧嘩の原因となるのか」と、教育に対して不信感を抱くようになった吉村の心が描き出されていた。金八は吉村が自殺を計画しているのではないかと疑い、校長先生から欠勤の許可を得て翌日も吉村の捜索を続けた。その後、作文の内容をヒントに、学校から遠く離れた夢の島で吉村を無事発見する。

クラスに戻った金八は生徒たちに吉村についての事情を説明しようとするが、生徒同士の連帯意識は希薄であり吉村のことを心配したものはいなかった。むしろ「入試まであと5ヶ月しかないにもかかわらず、入試前の授業をくじけたたった一人の生徒のために放棄している」と生徒から批判を受けた。

そのような生徒の言葉に対して、金八は「高校入試だけが人生ではない。大切なことは人間として他人の苦しみを感じるということだ」「私の国語の授業では知識を教えることはしない」「君たちは吉村の気持ちをわかることができなかった」と答えた。

生徒はこの言葉にもあまり関心を見せる様子はなかったが、放課後の帰り道、意外にも金八に反抗した優等生・岡村は「僕のことも探してくれますか?」と問うた。それに対して金八は「探してやるとも。その代わり手掛かりはいっぱい残しておけよ」と笑顔で答えて第一話は終了した。

⑶ 時代背景

 第二次世界大戦後、復興に向かった日本経済はその後、世界に例のない高度経済成長期に入っていった。こうして1968年、日本はGDPで米国に次いで世界第2位の経済大国にまで上り詰め、「豊かな」社会を実現することができた。高度経済成長期は、産業構造の転換期であり、第一次産業が減少し、第二・三次産業が増加する変化をもたらした。

そうした経済発展の中で、日本の教育事情も大きく変化していっていた。高度経済成長期の技術革新によって、それに対応できる知識を学んだ人材が求められるようになったのである。農村では「子供に残してやれる財産は教育だけ」という風潮が生まれていった。進学率の推移をみると、高度経済成長期に入って以降、高校進学率は1958 年の 53.7%から1965 年には 70.7%と大きく上昇している。団塊の世代が高校に入学する頃には7割を超えた。

このような進学率の変化は、若者の入職経路にも大きな変化を生んだ。学歴別就職者数の推移によれば、1950年代は、中学校卒業者が新規就職者の中心であったのにも関わらず、 60 年代になると高校卒業者中心へと変化してゆき、中学卒の就職者は急速に減少した。それと並行して就業者のほとんどが被雇用者として働くようになり、義務教育終了後すぐに徒弟的職場に入ることも減少した。

そして、日本の終身雇度・年功序列を前提として学校教育の成績で社会的地位が決定するメリトクラシーの傾向が強まっていったのである。このようにして、高度成長期に日本の良い大学を卒業すれば、良い会社に入れ、安定した幸せな人生が保障されるという「学歴社会」が確立したといえる。

 このことは三年B組金八先生にも取り上げられたような「受験戦争」の始まりとも軌を一にしていた。学歴社会の中で、社会的エリートとなり高収入を得るために「偏差値の高い大学」に入ることが良いことだと認識された。

これによって大学における受験争いが激しくなった。それだけでなくそこから、進学校と呼ばれる、大学入試で学生が好結果をおさめている高等学校へ入学することがその後の大学受験に有利であるとの認識も生まれ、多くの学生がそうした進学校への入学を目指すようになったことで高校受験競争も激しくなった。同様の論理で、中学受験、小学受験、幼稚園受験と、受験競争は低学年でも厳しくなっていった。

 また、高度経済成長による産業構造の転換は、「受験戦争」だけでなく「詰め込み教育」を生んでいった。経済発展のために高い技術が求められるようになったことを背景にして、1970年(昭和45年)改訂の学習指導要領は戦後から現在に至るまでのうちで最も内容の多い指導要領となった。

 このような「詰め込み教育」といった指導方針や「受験戦争」という厳しい環境の下で学生は学習することを強いられたがために、その弊害として三年B組金八先生に出てくるような、家出や非行、いじめ、不登校などいわゆる「教育問題」が社会問題として表出し始めたのである。

もちろん受験戦争など、人生のたった一部に過ぎず、偏差値で人の価値を測ることなど到底不可能である。しかし、この時代が生み出した「学歴社会」は偏差値というものが学生にとって全てであるかのような考え方を蔓延させたのだ。この受験戦争からドロップアウトした人は、自身の自尊心を大きく低下させ、大きく挫折してしまうようになった。そしてそのような人たちは、反動的に学校・先生・親など自分の教育に関わる身近な人物を好ましくないものとして認識するようになっていった。

そうして、自分の部屋に閉じこもって不登校になったり、逆に非行グループの中に参加し、出ようにも出ることができず非行を続けるものが増えていった。

このように、三年B組金八先生の世界で描かれた生徒像はまさしく高度経済成長後の教育の変化を如実にしていると言える。

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今振り返ると拙い論文だったなと思います。論理が飛躍している箇所がなりより多すぎる...

こういう論文を書く機会が訪れると、現代文をしっかりやることの大切さ、身をもって実感します。



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