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東洋的悟りと西洋的救済の共通性

「あまりに深く聞こえた音楽,そのため,それは全く聞こえず,自分が音楽になっている。音楽が続いている間は・・・」(T・S・エリオット)
 

はじめに


西洋と東洋の違い


 西洋的宗教と東洋的宗教には,大きな違いがあります。例えば,キリスト教と仏教を比較してみましょう。キリスト教は人格的な絶対者,すなわち神を想定しています。が,仏教は絶対的人格を想定していません。非人格的な法を重視します。また,その修行方法も異なります。キリスト教徒は祈り,仏教徒は瞑想します。キリスト教は超越的な神に向かい,仏教は内在的な自己に向かうのです。このように,すべての宗教は,想定する絶対者や修行法・信奉する教えに関し,大きく異なっているのです。

心理的抽象化


 しかし,外面的には異なる宗教も,その悟りや救済を心理的体験として抽象化することにより,同一の現象に帰することができます。諸宗教の根底に伏在する根源的体験とは何か?これが,今回の記事の主題です。

宗教的体験の構造化


理論的前提


 諸宗教の共通性を考察する前に,修行者や神秘家が体験する二つの世界を紹介しておきましょう。私たちが見る普通の世界のことを,仮に分節世界と名づけます。哲学的に言えば素朴実在論の世界であり,「山は山,川は川」である世界。つまり,私たちが見る平凡な世界です。一方で,すべての事物が無になり,すべての区別が解消し,世界が一つの塊となった世界のことを無分節世界と名づけます。つまり,名前によって個々の事物が区別できない世界です。
 こう考えてみて下さい。世界を一枚の白紙,しかも無限大の白紙と仮定します。白紙ですから,そこには何も書かれていませんし,何の区別も存在しません。これが,無分節世界です。そこに,ペンで線や絵を描き込むとしましょう。直線によってある領域を作ってもいいですし,円や四角を描いてもいいでしょう。また,様々な動植物や人間の絵を描いても構いません。そして,描き込んだ事物に名前をつけて下さい。これが,分節世界のあり様です。では,本題に入ります。

分節から無分節へ


 宗教的体験には,いくつかの段階があります。まず一つ目の体験が,分節世界から無分節へ跳躍することです。つまり,目の前の世界が崩壊し,すべてが一体となった世界を体験することです。先ほどの白紙の例で言えば,描き込んだ図形や絵が一瞬にして消えてなくなり,一枚の無限大の白紙,一つの塊となる体験です。こうした体験を,サルトルは「嘔吐」と呼びました。この絶対無分節的世界を,老子は道(タオ)と呼びました。道とは,絶対的な無であり,存在の究極的基礎です。

「深い底無し,それは万物の起源と基礎のようなものだ。・・・そこには絶対的に何もない。しかし<何か>がそこにはあるかのようだ」(老子)

 この世界において,絶対的に矛盾することが成立します。「山は山,川は川」だった分節世界から,「山は山に非ず,川は川に非ず」が成立する無分節世界。「A=非A」が成立する世界に移行するのです(金剛教における即非の論理)。この世界のことを,哲学者プラトンはイデア界,大乗仏教の祖・龍樹は空,儒教の朱子は未発と呼びました。また,分節世界から絶対無分節に移行することを,イスラム教ではファナー(消滅)と呼び,道元は身心脱落,パウロは「キリストと共に死ぬ」と表現しました。キリスト教における終末論的体験とは,このような仏教的無の体験と同一の心理現象だと考えられます。

無分節から分節へ


 第二の宗教的体験は,無分節の世界から分節世界に還ることです。つまり,無限大の白紙の例を用いれば,一旦まっさらになった白紙の上に,再び線や絵を描き込むことです。「元の世界に還るなら,結局意味がないではないか!?」そうおっしゃられるかもしれませんが,決してそうではありません。一度「万象万物の一体化」を体験した人間は,個物がうごめくこの世界の背後に一体化した<あるもの>を観ているのです。個々がバラバラでありながら,深い所で一体化した世界。絶対矛盾的自己同一の世界。これが,宗教的体験の第二段階です。この境地を,仏教では「無位の真人」(臨済),儒教では已発(いはつ)と呼びます。また,絶対無分節から分節世界に還る体験を,イスラム教ではバカ―(照明),仏教の華厳宗では理事無礙(りじむげ)と呼び,道元は脱落身心,パウロは「キリストと共に復活する」と表現しました。キリスト教における神の創造とは,「絶対無分節の分節化」の人格的表現と言えるでしょう。

究極の悟り


 第三の宗教的体験は,世界の創造的参与です。第二の宗教的体験において,万物の根底には絶対的中心が存在していました。あたかも,太陽の光がたくさんの惑星を照らすように,無分節的<あるもの>が個々の事物を照らしていたのです。この絶対的中心のことを,キリスト教やイスラム教では神,仏教や道教では法や道などと称しました。しかし,この第三の悟りにおいて,すべてが光を放つようになります。中央集権的世界から分散型の自律的世界へ(decentralized)。つまり,すべてを照らす太陽は,自分の外ではなく内にあり,自分が太陽となって万物を照らすのです。すべてのものが,照らし照らされる世界。常に創造しつつある光の重層世界。イブン・アラビーのいう創造不断。これが,最後に観る世界の姿です。
 釈迦はこの境地を縁起と呼び,華厳宗では事事無礙(じじむげ),儒教では心(しん),老子や荘子は渾沌(こんとん),パウロはキリストの身体(ソーマ)と称しました。イエス・キリストが言ったとされる教会(エクレーシア)とは,本来的にはこのような世界の姿だったと思われます。全ての事物が完全に自由で,かつ相互に連動し,有機的な調和を保つ状態。哲学者ライプニッツの言うモナドロジーです。キリスト教の用語に置き換えれば,第一と第二の宗教的体験を「回心」と呼び,第三の宗教的体験を「召命」と呼びます。また,私の長年の聖書研究(意味論的研究)によれば,パウロがよく使った「キリストにあって」とは,これらすべての宗教的体験を含んだ究極の言葉であり,全存在の内と背後にキリストを観た一挙展開的曼荼羅(まんだら)世界だったと思われます。
 

「神は一つ一つの被造物の内にあり,全体としてのすべての被造物のうちにもある」(マイスター・エックハルト)
 

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