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なぜ聖書には誤訳があるのか?

誤訳の種類


 最も多くの人々が尊崇してきた聖典(聖書)には,なぜ多くの語訳があるのでしょうか?誤訳が生じた原因には,いくつかあります。
 第一に,悪意ある誤訳です。つまり,本来のテキストを自分たちの教義に合うよう書き換えたのです。
 第二に,人間の単純なミスです。古代・中世にはコピー機や印刷機がありませんでしたので,聖書を書き写さねばなりませんでした。そして,教会内の写字生が書き写す際に,見間違いや書き間違いによって誤訳が生じたのです。
 しかし仮に,「悪意ある誤訳」も「書き間違い」もなかったとしましょう。つまり,聖書を生産する写字生は,善良で真面目かつ優秀だったと仮定しましょう。それでも,誤訳は生じてしまいます。私はこれを「善意の誤訳」と呼びます。

聖書の伝言ゲーム


 最古の写本であるマルコ伝には,こういった文言があります。

「パリサイ派の律法学者」(マルコ伝2-16)

聖書やキリスト教神学に精通している方々は,パリサイ派と律法学者を別の存在と仮定しがちです。しかし,当時の文献を調べてみると,律法学者の大半はパリサイ派に属していたようです。すなわち,マルコの言葉は,古代ユダヤ社会の状況を正確に伝えているといえるでしょう。
 次に,マルコ伝の後に成立したルカ伝を観てみましょう。

「パリサイ派と律法学者」(ルカ伝5-30)

同じ箇所であるにも関わらず,パリサイ派と律法学者が分離しています。つまり,福音書記者ルカは,パリサイ派と律法学者を別人格と考えたのです。察するに,ギリシャ人であるルカは,律法学者は大抵パリサイ派に属していた事実を知らなかったようです。
 次に,ルカ伝よりも後代に成立した写本(アレクサンドリア型)を観てみましょう。

「パリサイ派と彼らの律法学者」

教会内部の人間は,福音書の文言を調和させようとする傾向があります。キリスト教信者にとって,聖なる福音書に齟齬があってはならないのです。そこで,アレクサンドリアの写字生は,マルコ伝とルカ伝を調和させるために,αυτων(彼らの)を付け加えたのです。こうすることによって,「パリサイ派の律法学者」と書いたマルコの主張と二人の人格を想定したルカの主張を両立させたのです。
 最後に,かなり後代に成立した小文字写本を確認してみましょう。

「彼らの律法学者とパリサイ派」

古代→中世→近代と時代を経るごとに,福音は教義化され,教会は権威主義に走り,聖書は研究すべきものではなく崇拝すべきものになりました。そして,崇拝すべき聖書に,一点の誤謬も存在してはなりません。一言一句完璧でなければなりません。そこで,原語では最初に律法学者がくるマルコ伝とルカ伝を調和させるために,順番を逆にしたのです。こうして,福音書の辻褄を合わせようとする試行錯誤の結果,意味がわからなくなってしまいました(「彼らの」が誰を指しているのか不明瞭になった)。

聖書を読む注意点


 誤訳が形成される流れを通して,聖書を読む方,あるいは,これから聖書を読まれる方に,一つだけ忠告させて頂きたいことがあります。
 第一に,聖書は原典であっても,誤訳がつきものです。ですから,聖書を原典で読むか,英語で読むか,日本語で読むかに,あまり拘る必要はありません。古代ギリシャ語で原典聖書を読む方の中には,「原語で読まなければ意味がない!」とおっしゃる方がいます。が,その方が後生大事にしている原典もまた,誤訳だらけなのです。誤訳をギリシャ語で読もうが,日本語で読もうが,大差あるでしょうか?
 また,聖書の日本語訳には色々な種類がありますが,ほとんどは素晴らしい訳です。この場合の「素晴らしい」とは,完全無欠という意味ではなく,だいたいの意味がわかり,「熟読すれば本質が理解できる」という意味です。そもそも,完全無欠の翻訳など,この世には存在しません。存在しませんが,大まかな内容はわかるはずですし,深く味わえば本質を理解できるはずです。カントの「純粋理性批判」は,原語のドイツ語で読まなければ理解できないでしょうか?そんなことはありません。それと同じように,聖書も日本語訳で充分なのです。
 第二に,聖書の文言を覚える必要はありません。なぜなら,原典自体(最古の写本)が完全無欠ではないからです。日本語訳した聖書はなおさらです。もちろん,覚えたい人はご自由にどうぞ。しかし,聖句を唱えて功徳があるわけでもなく,悪霊が退散するわけでもありません。大事なことは,その精神(意味)を理解することであって,その文字を覚えることではありません。
 第三に,誤訳の多いこの聖書こそ,人類史上,最も貴重な本です。人を救い,国を救い,世界を救う唯一の書です。この世に素晴らしい本はたくさんあります。私たちの読むべき良書は無数にあります。カント哲学然り,モンテスキューの歴史哲学然り,ハイエクの経済学然り,ニュートンの物理学然りです。しかし,それらは一読・二読・三読しても,一生涯読み続けるような代物ではありません。一生涯読み続けても,決して色褪せない本。読むたびに新しい発見があり,精神的に向上できる本。たとえ孤島に独り追いやられても,唯一の友として携えるべき本。それは,(私にとって)聖書をおいて他にありません。
 

参考図書です。


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